泉涌寺 来迎院
泉涌寺 来迎院(せんにゅうじ らいごういん) 2008/05/10訪問
来迎院への道筋は善能寺と同じく、総門から大門の方へ回らず、泉涌寺道を直進する。仏殿脇の石段を下りると右側にたいこ橋と門が現れる。
来迎院は、弘法大師が唐土で感得した三宝荒神を奉安して開いたと伝えられている。その400年後の健保6年(1218)、月翁智鏡長老が堂宇を開創したが、応仁・文明の乱-応仁元年(1467)~文明9年(1477)-の兵火により炎上し、荒廃した。
その後、天正5年(1577年)、中興の祖・舜甫長老が織田信長より50石を受け、慶長2年(1597年)には前田利家が諸堂の再建を行い、徳川家も別朱印と100石あまりを与えられ、経済的な基盤も整い、ようやく復興を果たした。
広幅殿荒神堂には、木像荒神坐像一躯・木像護法神立像五躯が奉祀され、本堂に霊元天皇の御念持仏であった幻夢観音菩薩坐像も祀られている。
境内に入ると山門から真っ直ぐにのびる石段とその上にあるお堂が目に入ってくる。このお堂が荒神堂であり、石段の左側にある建物が来迎院の本堂となる。七福神巡りの日は多くの人出があるようだが、この日は帰り際に1組の観光客に出会ったのみで、非常に静かな境内であった。
元禄14年(1701)、大石良雄は赤穂を退去後、外戚にあたる当時の来迎院長老を頼り、来迎院の檀家となり山科に居を構えた。大石は来迎院の林泉を好み、書院と茶席含翆軒を設け、京阪にいる元赤穂藩の同士と密議を行ったと伝えられている。
含翆庭への道筋は、山門をくぐると、すぐ左側にまがり、そのまま庫裡へ向かって直進する。
庫裡の右側の小さな木戸を開けると客殿と含翆庭が広がる。客殿を背にして左側奥に心字池を配した池泉回遊式の庭。順路に従い、反時計回りに庭を廻る。
増田建築研究所のJAPANESE ARCHITECTURE IN KYOTO(京都の日本建築)(http://web.kyoto-inet.or.jp/org/orion/jap/hstj/higasij.html : リンク先が無くなりました )によると含翆軒は明治17年(1884)ごろまで来迎院で保存されていたが、その後買い取られ行方不明となっている。従って現在の建物は大正14年(1925)に再興されたものであるということ。
含翆庭は人の手によって護られている庭というよりは、東山の峰に連なる自然と一体化することを望んでいる庭のように見える。作庭者、作庭時期は不明だが、「含翆軒を深山の草庵に見立てて作った庭です」と言われれば信じてしまいそうだ。それにしても石灯籠や石塔などの人工物をもう少し取り去った方が自然の美しさがさらに出てくるはずなのだが。。。そのあたりの加減が一番難しいのだろう。
境内自由
含翆庭は拝観料が必要
順路どおり進むと本堂と荒神堂を見逃してしまうので、こちらもお忘れなく。
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