泉涌寺 善能寺
泉涌寺 善能寺(せんにゅうじ ぜんのうじ) 2008/05/10訪問
善能寺は、泉涌寺総門をくぐり、そのまま大門の方へ右折せずに参道を直進すると左手下側に見えてくる。泉涌寺の中には入らず(伽藍拝観料を払わずに)石段を下ると左側に善能寺 右側に来迎院の門が現れる。
善能寺は、もともと八条油小路にあり二階観音堂とよんでいたが、弘仁14年(823)弘法大師が稲荷大明神を祀る寺(日本で最初に祀られた稲荷大明神)として善能寺と号した。その後、 天文20年(1551)、後奈良天皇により泉涌寺の護持院として今熊野観音寺の西北(現在地は今熊野観音寺の南東にあたる)に移された。明治維新を経て荒廃し、明治20年(1887)再興の時に現在の地に移された。
本堂・祥空殿は昭和46年(1971)北海道横津岳で遭難したばんだい号の遺族の方により、 全ての航空殉難者の慰霊と事故根絶を祈願されて建立された。
重森三玲によって昭和47年(1972)に作られた池泉式庭園・遊仙苑。枯山水庭園がほとんどを占める重森の作品群の中では古典的手法による異色の庭となっている。航空殉難者慰霊ということになんらかのつながりがあるのだろうか?
既に以前より給水されていないため涸池となっていたが、決して荒れ果てたという印象は受けない。むしろ比較的広い境内の中にあるためシンプルで清潔感のある力強さを感じた。このあたりに重森三玲の精神性の高さが現れているのだろう。しかし小雨そぼ降る新緑の季節に訪れたため庭全体が薄暗く、残念ながら石組みを含めた全体構成がつかめなかった。
「ようこそ中田ミュージアムへ」には撮影状況の良い遊仙苑の写真と石組みについての説明が掲載されている。
境内自由
ところで泉涌寺からの石段は、ややつま先下がりのため、雨の日の下りはご注意ください。
善能寺庭園の北側は宮内庁書陵部月輪陵墓監区事務所
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