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御香宮神社



御香宮神社(ごこうのみやじんじゃ)  2008/05/10訪問

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御香宮神社 拝殿

 伏見稲荷大社の表参道から伏見街道に出て、JR稲荷駅とランプ小屋の前を通り過ぎ、もう少し伏見街道の町並みを見ながら南下する。まっすぐに南へ流れる鴨川運河を渡り京阪電鉄深草駅に至る。ここから京阪電鉄に乗車し伏見桃山駅で下車。地下の改札口から地上に出ると目の前に大手筋通が現れる。西は巨大なアーケード街へと続き、東を見ると近鉄京都線桃山御陵前駅の先に赤い大鳥居があるので道に迷う心配はない。大鳥居をくぐると石垣と白い壁が始まる。この場所の地形は東北にある伏見桃山陵に向って上っていくため、御香宮神社の西南角の石垣が最も高くなる。この石垣の見事さとその先にある神社門の意匠を見る限り、ここが神社であるとは思えない。

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御香宮神社 神社門側から大鳥居を望む
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御香宮神社 石垣と白壁

 この神社門は、元和8年(1622)に水戸徳川頼房によって寄進されたものであり、伏見城の大手門の遺構である。低く抑えたシルエット、重量感あふれる豪壮な構えは伏見城の正門を護る威厳を十分に感じさせる。また細部も中国二十四孝を彫った蟇股が施されるなど桃山時代の華麗な装飾も備え国の重要文化財に指定されている。

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御香宮神社 神社門

 御香宮神社は神功皇后(成務40年(170)~神功69年(269))を主祭神とし、夫の仲哀天皇、子の応神天皇ほか六神(宇倍大神,瀧祭大神,高良大神,莵道稚郎子,白菊大神,河上大神)を祀る。神功皇后が懐妊しているにもかかわらず新羅へ出兵したとされる神話(三韓征伐)から、安産の神として信仰を集めている。

   旧社格 府社

 稲荷山が伏見における神奈備の山の代表とされてきたが、伏見山(木幡山)も神々の坐す山であった。これを御室山と称し、そこに奉祭されている神社を御諸神社と呼んできた。御香宮神社のHPには、貞観4年(862)9月9日に境内より香りの良い水が湧き出し、その水を飲むと病が治ったため、清和天皇(嘉祥3年(850)~元慶4年(881))から「御香宮」の名を賜ったとある。前身になる御諸神社の創立は貞観4年よりさらに遡ることとなるが明らかな記録は残っていないようだ。ともかくも御香宮は伏見九郷の総産土神として、深く崇敬されてきた。

 御香水の由来とは別に、勅令をもって筑紫の香椎宮に神功皇后の分霊を請い御諸神社にお迎えし、御諸神社の「御」と香椎宮の「香」をとり御香宮と呼ぶようになったという伝承もある。祭神である神功皇后には、新羅から無事に凱旋し応神天皇を出産したという安産信仰の他にも、外敵に対する国体の守護神という面もある。弘安3年(1280)には後宇多天皇による元軍討伐祈願のための奉幣も行われた。
 同じ神功皇后・仁徳天皇を祭神とする藤森神社が墨染にあり、“ヒデ”さんのHP(http://www5e.biglobe.ne.jp/~hidesan/gokogu-jinjya.htm : リンク先が無くなりました )で考えられているように、単なる偶然ではなく、何か歴史的な要請がこの時期にあったのではないかと思われる。
 御香宮神社も応仁の乱(応仁元年(1467)~ 文明9年(1477))で兵火を受け一時期衰退した。小田原開城により、天下統一がほぼ完成した天正18年(1590)、豊臣秀吉により明の征服とアジア諸国の服属を目的とした海外進出(文禄・慶長の役)の成功を祈った願文と太刀が献じられた。さらに文禄3年(1594)伏見城の築城とともに現在の地から伏見城の艮(うしとら 東北の方角)に鬼門除けとして移され、社領三百石を受けることとなった。現在もこの地(深草大亀谷古御香宮町)には古御香宮が遺されている。

 秀吉の死去(慶長3年 1598)とともに文禄・慶長の役(文禄元年~慶長3年 1592~1598)は終わる。関ヶ原の戦い(慶長5年 1600)を経て、江戸幕府(慶長8年 1602)が成立し、実権は徳川家に移る。そして再び御香宮神社は元の地に戻ることとなる。慶長10年(1605)、家康の命により京都所司代坂倉勝重を普請奉行として本殿が造営された。同時に秀吉時代からの社領三百石も約束された。元和8年(1622)水戸徳川頼房により伏見城大手門が御香宮の神社門として、また寛永2年(1625)、紀州徳川頼宣により拝殿が寄進された。徳川頼房、頼宣、そして尾張徳川義直らは、伏見に生まれ御香水を産湯として使われたといわれている。伏見九郷の総産土神として深く崇敬されてきた御香宮と徳川御三家の縁は深く、江戸時代に行われた社殿修復は、紀伊、尾張、水戸の御寄進金と氏子の浄財をもって行われた。

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御香宮神社 境内 拝殿側から神社門を望む

 鳥羽伏見の戦において御香宮神社は薩摩藩の屯所となった。この経緯とその結果については拝殿の右手前に置かれた「明治維新 伏見の戦跡」の石碑とその横に掲示された佐藤栄作による一文が最もよく物語っている。
慶応3年(1967)12月7日の明け方表門に徳川氏陣営と書かかれた木札が掲げられた。祠官三木善郷によって御所に注進されると、翌8日は薩摩藩士吉井孝助が来訪し、この木札を外し神社に部隊を置いた。そして慶応4年(1968)1月3日鳥羽方面で幕府軍と薩摩軍が衝突するとこの地の東側台地に配備された大山弥助率いる砲兵隊は目と鼻の先にある伏見奉行所への砲撃を開始した。官軍は翌1月4日の戦いも苦戦を強いられるも最終的には優勢にすすめ、幕府軍は淀から橋本へさらには大阪への撤退を余儀なくされた。

 そして説明文は次のように結論付けている。
「かくて明治維新の大業はこの一戦に決せられたのである。即ち我国が近代国家に進むか進まぬかは一に繫がってこの一戦にあったのである。この意味において鳥羽伏見の戦は我が国史上、否世界史上まことに重大な意義を持つわけである。」
 一国の総理大臣としてではなく官軍を支えた長州藩の末裔の歴史観がよくうかがえる。明治維新が近代国家(その後の植民地主義への傾斜?)への道を推し進めたことは理解できても、大政奉還後の徳川家主導による新政府では為し得なかったかの疑問を感じ得ない。そのあたりを全て省略し戊辰戦争の必要性のみを主張することが明治維新100年を記念して行われた昭和43年(1968)にまだ行われていたということになる。

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御香宮神社 御香水

 本殿の左側に御香水が湧き出ている。水をもらいにくる人が絶えず、なかなか写真が撮れない状況だった。東京で生まれ育った人間から見ると湧き水を何本ものペットボトルにつめて持ち帰る光景は非常に珍しいものである。
 昔より伏見は「伏見七ツ井」に代表されるように名水が沸きいで、酒造りの盛んであった。これは京都盆地と伏見の地形によっている。伏見の平野部を流れる自然の川は鴨川が唯一で、丘陵地から流れ出る川は七瀬川ひとつである。伏見といえば豊かな水の流れが想像されるかもしれないが自然の川はこの2つだけである。これは東山山系から南に連なる深草丘陵・桃山丘陵地に降った雨水が、流れ出る前に伏見の地盤にしみこみ伏流水となっているためである。この豊富な伏流水こそが伏見の酒造りを支えていた。この伏見の地に桃山断層(花折断層の南部分)が北側から伸びてくる。この断層上に伏見稲荷大社、藤森神社そして御香宮神社がある。東側の深草丘陵・桃山丘陵地で生み出された伏流水は桃山断層に当たり、堰き止められ地層の隙間を通して地上にしみ出してくる。これが湧き水の仕組みであり、このような綺麗な水が湧く場所に神社が建てられたということである。

 ちなみに伏見七ツ井とは、石井(いわい 御香宮)、常盤井(ときわい 新町キンシ正宗(株)工場敷地内)、春日井(かすがい 江戸町)、白菊井(しらぎくい 下板橋町 伏見板橋小学校)、苔清水(こけしみず JR桃山駅踏切北側)、竹中清水(たけなかしみず 竹中町 寶酒造(株)伏見工場敷地内)、田中清水(たなかしみず 丹波橋通小橋北側 清水町)。現在では枯れてしまった井も、深井戸化により復興された井もあるようだ。また「平成伏見七名水」とは御香宮、城南宮、藤森神社、長建寺、月桂冠大倉記念館、鳥せい本店、清和荘。こちらは現役の井である。

 伏見稲荷大社から御香宮神社を訪れた頃が一番天候もよくなく、拝殿そして本殿ともに極彩色の装飾が復元されているにもかかわらず撮影した写真では全く再現されていなかった。再度訪れなければならない神社のひとつとなった。

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御香宮神社 絵馬堂

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御香宮神社 伏見義士碑 神社門をくぐってすぐ左

「御香宮神社」 の地図





御香宮神社 のMarker List

No.名称緯度経度
 御香宮神社 34.9344135.7675

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