徘徊の旅の中で巡り合った名所や史跡などの「場所」を文書と写真と地図を使って保存するブログ

御香宮神社 その3



御香宮神社(ごこうのみやじんじゃ)その3 2009年1月11日訪問

画像
御香宮神社 明治維新伏見の戦跡の碑

 前項で御香宮神社と徳川家の関係を記してきた。徳川家康が伏見城の再建に着手すると、豊臣秀吉により深草大亀谷古御香町に移された御香宮神社(古御香宮)は、家康によって旧地に戻され、本殿が慶長10年(1605)に寄進されている。その後も、元和8年(1622)初代水戸藩主・徳川頼房によって伏見城の大手門を表門に、そして拝殿を寛永2年(1625)初代紀州藩主・徳川頼宣よりの寄進を受けている。さらに社殿修復に関しては伏見奉行に出願し、その費用は徳川三家の御寄進金を氏子一般の浄財で行われてきた。また大修理の折には、神主自らが江戸に下り寺社奉行に出願し、徳川幕府直接の御寄進を仰いだこともあったようだ。それだけ江戸幕府創設から御香宮神社は徳川家と結びつきが強い神社であった。

画像
御香宮神社 明治維新伏見の戦跡の碑と説明文
画像
御香宮神社 説明文

 拝殿右手前には明治維新伏見の戦跡の碑が建つ。この碑は昭和43年(1968)に明治百年を記念して奉納されたもので、時の内閣総理大臣・佐藤栄作の書による。その傍らには下記のような説明文が掲げられている。

 上記の説明文によると、慶応3年(1867)12月7日の朝、幕府の徳川氏陣営という木札を見た御香宮神社の祠官・三木善郷が御所に注進したところ、その翌日に吉井孝助が率いる薩摩藩兵が駐屯したとしている。すなわち木札が立てられたのが12月7日早朝で、吉井が御香宮神社に到着したのが8日ということである。これはなかなか微妙な時期である。

画像
御香宮神社 社務所の床の間に掛けられた伏見の絵図

 慶応3年(1867)12月8日の夕方から行われた朝議により、長州藩主父子の朝敵赦免・官位を復旧、さらに禁門の政変で京都を追放されていた七卿の赦免、蟄居をさせられていた岩倉具視などの公卿の赦免が決定する。これが旧体制で行われた最後の朝議となる。翌9日の早朝に朝議が終わり公家衆の退出後、待機していた尾張藩・土佐藩・薩摩藩・越前藩・安芸藩の5藩兵が京都御所九門を封鎖する。二条摂政や朝彦親王などの参内も禁止された中で、赦免されたばかりの岩倉具視らが、新政府の樹立を決定し新たに置かれる三職の人事を定めている。そして小御所で開催された三職会議で王政復古の大号令を審議、決定している。ここで決められたことは下記の通りである。

将軍職辞職を勅許
京都守護職・京都所司代の廃止
江戸幕府の廃止
摂政・関白の廃止
総裁・議定・参与の三職の設置

総裁  有栖川宮熾仁親王
議定  仁和寺宮嘉彰親王
    山階宮晃親王
    中山忠能
    正親町三条実愛
    中御門経之
    島津忠義 (薩摩藩主)
    徳川慶勝 (徳川慶恕 元尾張藩主)
    浅野茂勲 (安芸藩主)
    松平慶永 (松平春嶽 前越前藩主)
    山内豊信 (山内容堂 前土佐藩主)
参与  岩倉具視、 大原重徳、 万里小路博房、長谷信篤
     、橋本実梁 (公家)
    岩下方平、 西郷隆盛、 大久保利通 (薩摩藩士)
    丹羽淳太郎、田中不二麿 (尾張藩士)
    辻将曹、  桜井与四郎 (芸州藩士)
    中根雪江、 酒井十之丞 (越前藩士)
    後藤象二郎、神山左多衛 (土佐藩士)

 既にこの政変の準備は、12月6日には越前藩から徳川慶喜に伝えられていたようだ。慶喜は人質になることを避けるため、8日の朝議を欠席している。そして小御所会議の決定後の11日に長州藩兵が入京している。慶喜は京での暴発を避けるため、12日に元京都守護職の松平容保と元京都守護職の松平定敬を連れ二条城を出ている。翌13日に大阪城に入城し、二条城の警護は水戸藩と新選組に任されている。

画像
御香宮神社 絵図の全図

 再び徳川氏陣営の木札が建てられた慶応3年12月7日の位置づけについて考えてみる。この日は新暦では1868年1月1日にあたる。そういうこととは全く関係なく、天満屋事件が起こり、海援隊と紀州藩、新選組が斬り合いを行っている。しかしその裏側では政変の準備が確実に行われている。確かに5日後の徳川慶喜等の下阪、さらに1ヶ月の後に鳥羽伏見の戦いの発生を知り得た者はいない。 鳥羽伏見戦防長殉難者之墓 その2で記したように、慶応3年(1867)10月28日には、藩主毛利敬親は毛利内匠・国貞廉平に上坂出兵の旨を授け、諸隊にも告示している。そして11月18日長州藩を訪れた西郷隆盛らとの間に三カ条からなる出兵協約が結ばれ、11月25日毛利内匠を総督とする長州軍800は三田尻港を出港する。11月29日摂津打出浜に上陸し、西宮に陣を張る。さらに後詰の1300も11月30日には三田尻を出航している。そして上記のように長州藩兵は入京している。徳川氏陣営はこの長州藩を迎え撃つため、あるいは進行しつつある政変のための布石として置かれたのかもしれない。それでも会津藩や京都守護職の出兵もなく、ただ木札を建てたことで終わったようだ。これに対して吉井孝助が駆けつけた12月8日は朝議が行われる日であり、薩摩藩は今後の展開を読んだ上の進駐であっただろう。この読みの違い、あるいは政治的主導権の差が、新政府軍と旧幕府軍の位置付けに現れたと思われる。

画像
御香宮神社

「御香宮神社 その3」 の地図





御香宮神社 その3 のMarker List

No.名称緯度経度
01  御香宮神社 一の鳥居 34.9329135.7663
02  御香宮神社 表門 34.933135.7674
03  御香宮神社 鳥居 34.9332135.7674
04  御香宮神社 伏見義民碑 34.9331135.7671
05  御香宮神社 拝殿 34.9344135.7674
06  御香宮神社 本殿 34.9347135.7675
07  御香宮神社 絵馬舎 34.9344135.7677
08  御香宮神社 明治維新伏見の戦跡の碑 34.9342135.7676
09  御香宮神社 御香水 34.9346135.7674
10  御香宮神社 庭園 34.9346135.767

「御香宮神社 その3」 の記事

「御香宮神社 その3」 に関連する記事

「御香宮神社 その3」 周辺のスポット

    

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

 

サイト ナビゲーション

過去の記事

投稿カレンダー

2011年10月
 12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930
31  

カテゴリー