文書と写真・地図による「記憶」の再現

御香宮神社 その2



御香宮神社(ごこうのみやじんじゃ)その2 2009年1月11日訪問

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御香宮神社 表門

 伏見奉行所跡から、やや上り勾配の道を進むと大手筋通に出る。右手前方に御香宮神社の石垣と築地塀が見える。石垣の高さは大手筋通の上り勾配を示している。大手筋通には朱に塗られた鳥居があるが、御香宮神社の境内への入口には神門が設けられている。石垣に築地塀そして薬医門とは、府社御香宮神社の社号標石がなければ武家屋敷のようにも見える。

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御香宮神社 一の鳥居
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御香宮神社 境内西南隅の石垣 2.5から3メートル位の高さがある

 この表門は元和8年(1622)初代水戸藩主・徳川頼房が伏見城の大手門を拝領し寄進したとされている。慶長5年(1600)関が原の戦いの前哨戦となる伏見城の戦いで、豊臣秀吉が木幡山に築城した第3期の伏見城は炎上してしまう。そして関が原の戦いに勝利した徳川家康は、同慶長5年(1600)より木幡山に伏見城の再建を行う。そして慶長8年(1603)徳川家康は伏見城で征夷大将軍の宣下を受ける。また第2代将軍の徳川秀忠も慶長10年(1605)この伏見城で将軍宣下を受けている。その後も作事は続けられるが、駿府城の改築のため慶長11年(1606)より作事は停止され、屋敷や資材は駿府城へ運ばれる。慶長20年(1615)の大坂の陣の終了後、一国一城令の発令に伴い、元和5年(1619)に伏見城の廃城が決まり、翌年から城割りが始まった。その後、元和9年(1623)に徳川家光の将軍宣下が、やはり伏見城で行われたが、本丸部分に若干の修復を施して執り行われたようだ。そしてその後完全な廃城となっている。徳川頼房が伏見城の大手門を寄進したのは、廃城が決まった後の元和8年(1622)のこととされているから、一応辻褄はあっている。確かに大手門のあったであろう大手筋通に移築されても不自然でないのかもしれない。この表門は三間一戸の切妻造本瓦葺の薬医門である。つい雄大な構えに目は行ってしまうが、正面を飾る中国二十四孝を彫った蟇股などに、見事な桃山時代の建築装飾が残されていることから国の重要文化財に指定されている。

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御香宮神社 境内の石造の鳥居
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御香宮神社 表門を振り返る

 前回の訪問の時、御香宮神社の創建について湧き出た御香水から名付けられた説と神功皇后の三韓征伐に関わる説について触れている。御香宮神社の公式HPでは略歴を下記のように記している。
     日本第一安産守護之大神として広く崇められている、神功皇后を主祭神として仲哀天皇応神天皇他六柱の神を祭る。初めは、『御諸神社』と称したが、平安時代貞観四年(八六二)九月九日に、この境内から「香」の良い水が涌き出たので、清和天皇よりその奇端によって、『御香宮』の名を賜った。

 主祭神を神功皇后、仲哀天皇、応神天皇他6柱の神を祭るとしてはいるものの、創建に関わる歴史の中では触れていない。また玄松子さんのHP 玄松子の記憶の中に掲載されている御香宮神社には神社本庁の「平成祭データ」が掲載されている。この中で、伏見桃山御香宮略記として、やはり以下のような表現で神功皇后の故事を説明している。
     熊襲よりも先ずその後押しを断たうとせられ、御懐胎の御身を以て、親ら兵船を進められた。間もなく筑紫に凱旋せられて、お生まれなされたのが誉田別命即ち応神天皇である。

 神功皇后はどこに遠征したかも明確でなく、この後の文脈では大陸より先進文化が当時の日本に入ってきたという事実のみを書いている。そればかりか神功皇后と関係が深い筑紫の香椎宮を後の時代に勧請し、御諸神社と香椎宮から御香宮神社と名付けたという説を見ることは出来ない。つまり神話時代の故事を歴史的に書くことが困難な状況になったと理解すべきか?いずれにしても神功皇后を主祭神としても、歴史的に遡れるのは貞観4年(862)に境内から香の良い水が涌きだしたという事績であり、それが清和天皇によって御香宮と名付けられたということだけが残っている。

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御香宮神社 拝殿
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御香宮神社 拝殿の彫刻

 時代がかなり下り、伏見城築城の文禄3年(1594)豊臣秀吉は、御香宮神社を城内に移し鬼門の守護社としている。秀吉は本殿等を造営し社領300石を寄進している。現在でも深草大亀谷に古御香町の地名が残る。これは秀吉によって移された古御香宮の名残である。 再び御香宮神社が旧地に戻ったのは、慶長10年(1605)のことであった。すなわち慶長5年(1600)関が原の戦いに勝利した徳川家康は京阪の支配を強めるため、伏見城の再興に着手した。そして家康は御香宮神社を再び元の地に戻すことで、伏見の人心の安定を図ったと考えられている。すなわち秀吉が自らの城を護るために御香宮神社を動かし、家康は伏見の人々のために戻したとも言える。

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御香宮神社 境内図

 南に面した表門を潜り境内に入ると正面に石造の鳥居があり、拝殿、本殿が一直線上に並ぶ。
 拝殿は寛永2年(1625)徳川頼宣の寄進による。桁行7間、梁行3間の入母屋造本瓦葺の割拝殿。正面軒唐破風は極彩色の彫刻によって埋められ伏見城御車寄と言い伝えられてきたが、現在では誤りであるとされている。特に平成9年(1997)に半解体修理が行われ、その際彫刻に極彩色が復元されている。確かに現在我々の見る拝殿は、伏見城の遺構と思わせる程の豪壮さと華麗さを備えた建物である。
 さてこの建物を寄進した徳川頼宣は徳川家康の十男で紀州徳川家の初代にあたる。ちなみに先の表門を寄進した徳川頼房は家康の十一男であり、水戸徳川家の初代である。すなわち御香宮神社は徳川御三家の初代当主によって表門と拝殿が寄進されていることが分かる。

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御香宮神社 本殿脇にある御香水
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御香宮神社 御香水 現在は飲用に適していないようだ

 本殿は拝殿から屋根が架けられているため、正面からの姿を見ることは難しい。この本殿も慶長10年(1605)徳川家康の命により、京都所司代坂倉勝重が普請奉行として建立されている。5間社流造桧皮葺。正面の頭貫、木鼻や蟇股、向拝の手挟に彫刻が施され、その全てを極彩色で飾られている。全体の造り、細部の装飾ともに豪壮華麗で桃山時代の大型社殿として価値が高く、昭和60年(1985)重要文化財に指定されている。なお現社殿が慶長10年(1605)に造営されて以降、社殿修復に関しては伏見奉行に出願し、その費用は、紀伊、尾張、水戸の徳川三家の御寄進金を氏子一般の浄財で行われた。そのため大修理時には、神主自ら江戸に下り寺社奉行に出願して徳川幕府直接の御寄進を仰いだ例も少なくなかったとされている。それだけ江戸幕府創設から徳川家と結びつきが強い神社であることが分かる。
 本殿も拝殿と同じく平成2年(1990)から始められた修理により再び極彩色が復元されている。

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御香宮神社 表門と一の鳥居を眺める

「御香宮神社 その2」 の地図


大きな地図



御香宮神社 その2 のMarker List

No. 名称 緯度 経度
01  御香宮神社 一の鳥居 34.9329 135.7663
02  御香宮神社 表門 34.933 135.7674
03  御香宮神社 鳥居 34.9332 135.7674
04  御香宮神社 伏見義民碑 34.9331 135.7671
05  御香宮神社 拝殿 34.9344 135.7674
06  御香宮神社 本殿 34.9347 135.7675
07  御香宮神社 絵馬舎 34.9344 135.7677
08  御香宮神社 明治維新伏見の戦跡の碑 34.9342 135.7676
09  御香宮神社 御香水 34.9346 135.7674
10  御香宮神社 庭園 34.9346 135.767

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