魚三楼
魚三楼(うおさぶろう) 2008/05/10訪問
御香宮神社を後にし、再び大手筋の大鳥居をくぐり、西に向う。近鉄京都線・桃山御陵前駅の高架と京阪電鉄・伏見桃山駅の踏切との間の百メートルに満たない地域の中央を京町通が通っている。大手筋から左折し京町通に入り南に30~40メートル進むと、道の右側に「魚三楼」という軒行燈を掲げた間口の広い商家が現れる。
魚三楼のHPによると讃岐出身の三郎兵衛が江戸中期 明和元年(1764)に創業した料亭。伏見港に揚がる瀬戸内海の魚や京野菜と伏見の豊かな湧水を使い、各藩の大名屋敷の料理方などを務めてきた。
伏見奉行所跡に向う途中でこの料亭の前を通ったのは、この町屋の道路に面した出窓に残された弾痕を確認するためである。弾痕は小銃弾によるもので、少し不鮮明なものも入れて2~3発程度見ることができる。明らかに道路北側から家屋内側へ向って打ち込まれたことが分かる。京町通の北側には御香宮神社、南側には伏見奉行所がある。
1月3日の夕刻、鳥羽方面で幕府軍と新政府軍が衝突すると、期を同じくして伏見でも御香宮神社とその東側台地より伏見奉行所への砲撃が開始された。伏見奉行所に詰めていた会津藩、新選組そして幕府軍は御香宮神社からの攻撃に対して、北側から挟撃すべく現在の国道24号線、京町通、両替町通などの通りを北上する。このあたりの幕府軍と新政府軍の配置とその後の撤退路については、Syoさんの伏水街道コラムの中に掲載された「両軍伏見市街戦概要図」が一番分かりやすい資料であると思われる。 しかし諸隊は各所で新政府軍歩兵隊の銃撃に会い多くの戦死者を出し、なかなか前進はかなわなかった。この中で新選組は京町通を北上した。小銃などの武装を持たない新選組は大手筋側からの正確な銃撃に遭遇し、身動きできない状態に陥ったことは容易に想像できる。壬生義士伝の中で吉村貫一郎が官軍に切り込んでいく光景が印象的であったが、ここがまさにそのイメージに最も近い場所といえるだろう。
ところで官軍はどのような銃を使用していたのだろうか?
1853年に周囲に溝が切られたドングリ型の鉛弾を使用する歩兵銃としてエンフィールド銃がイギリスで開発され、イギリス軍の制式小銃として使用された。前装式の施条銃で、充分な回転と弾丸周囲からのガス漏れを防止できるため、飛距離と命中精度が飛躍的に向上させることに成功した。この銃はアメリカ南北戦争で南軍の主力銃として大量に使用されたため、戦後60万挺が払い下げられ、グラバーを通じて薩摩藩や長州藩などにも大量に流れ込んできた。鳥羽伏見の戦いの際にも長州・薩摩軍はこの銃を使用したと考えられる。エンフィールド銃は有効射程距離330メートル、誤差100ヤードで2インチと、それまで使用していたゲベール銃とは、有効距離で3倍、誤差1/5と比較できないほどの能力差があった。
球弾に比べて複雑な形状の弾丸は、一度人体に命中すると変形し酷い銃創を生み出すことで、殺傷力を格段に向上させている。そのため密集陣形を取った場合は、多くの即死者を出すこととなる。また運よく致命傷を負わなくても弾頭に塗られたグリスよって引き起こされる感染症で数日後に死ぬことも多かった。
大手筋の次に東西に走る魚町通まで約100メートル。伏見奉行所の門の位置がどこであったかは分からないが奉行所を出て京町通に入るあたりが、このあたりだったと仮定する。エンフィールド銃の性能からするとかなりの確率で的中していたと思われる。また魚三楼が大手筋と魚町通のほぼ中間地点となる。もしここまで無事にたどり着いたとしても援護射撃なしにあと50メートル切り込むことは絶望的であっただろう。
現在の私たちは映画などであまりにも多くの銃撃シーンを目にしているため、戦場に対する想像力は鈍くなっているのかもしれない。しかし直木三十五が昭和5年(1930)に鳥羽伏見の戦を描いた「近藤勇と科学」は、あらためてその場を支配していた恐怖感と無力感を現在でも共有できる優れた作品の一つだと思う。
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