淀城
淀城(よどじょう) 2008/05/11訪問
井上源三郎が埋葬されたと考えられている辨慶淀店から納所の交差点に向かい、唐人雁木旧趾の碑を探したがどうも見つからなかった。唐人雁木とは江戸時代、将軍の代替わりや慶事の祝賀のために派遣された朝鮮通信使が到着した船着場のこと。通信使の一行は対馬から瀬戸内海に入り淀城下に到着していた。淀で休憩した後、京都を経由して江戸へ向かう。高張提灯が並べられた雁木では、一晩中篝火が焚かれ、饗応されていたといわれている。船着場の階段が鋸状なので雁行をイメージされて雁木といわれたらしい。
旧京阪国道をさらに南西に進むと淀城跡公園へ続く入口がある。
淀には2つの淀城があった。1つ目は室町時代中期に築城された淀古城であり、2つ目は江戸時代初期の淀城で現在の淀城址にあたる。
淀古城がいつ築城されたかは明らかではない。応仁の乱の西軍・畠山義就に備えるため、畠山政長が築かれたと考えられている。乱の終結後は、山城国を掌握した細川氏にとって摂津国・河内国を抑えるための役割を担うこととなる。永正元年(1504)謀反を仕掛けた薬師寺元一が立て篭もる淀古城を細川政元が攻め掛け、落城させた。しかし政元はこの3年後暗殺される。その後、政権は細川氏から三好氏に移るとともに、城主も変わっていく。そして織田信長が永禄11年(1568)に上洛を果たすと淀古城も信長軍の焼き討ちより落城する。天正元年(1573)に信長討伐のため挙兵した将軍足利義昭は宇治の槇島城に立て籠もった。大した戦闘も無く義昭は包囲された信長軍に降伏し、室町幕府は消滅してしまう。その際、淀古城も義昭に呼応したため、信長軍の木下藤吉郎によって攻められ落城する。
本能寺の変後、明智光秀によって淀古城は改修された記録も残っている。さらに羽柴秀吉との山崎の戦いでも使用された。天下統一を間近とした天正17年(1589)秀吉は側室茶々に産所として与えるために羽柴秀長に改修をさせる。これにより茶々は「淀殿」と呼ばれるようになり、この城で鶴丸が産まれる。そして文禄4年(1595)淀古城の城主であった木村重茲は秀次事件に連座し自刃、城も廃城となる。
淀古城の位置は現在の妙教寺・納所小学校のあたりといわれている。妙教寺に淀古城址の石碑が立ち、北城堀や小字城堀という地名が納所に残されている以外には、この地に淀古城があったことを示すものがない。このように歴史の各局面に現れてきた城としては解明されていないことが多い。
慶長20年(1615)の大阪夏の陣の終了後、徳川幕府は西側からの脅威に対応する防御の再編が可能となった。伏見城を廃城とし、元和9年(1623)二代将軍徳川秀忠の命により松平定綱が淀藩に入部し、徳川幕府の援助によって淀城が築城に着手した。寛永2年(1625)には、城郭の大部分が完成し、翌寛永3年(1626)には徳川秀忠と徳川家光が縄張りを調べるため来城したといわれている。それだけこの城の役割の大きさが分かる。その後、何回か城主が変わるが、享保8年(1723)に稲葉正知が10万石で城主となると、稲葉氏は幕末まで城主をつとめることとなる。
最後の城主となる稲葉正邦は、淀という要衝を治める藩主であるため京都所司代を勤め、京都の政務を一任されていた。その後、老中さらには政事総裁として江戸藩邸で幕政に携わることが長かった。城代家老田辺家が藩政を執り行うことが淀藩では通例となっており、正邦の時代も田辺権太夫が差配していた。急進・改革を唱える正邦に対して田辺家は穏健派であったといわれている。そのため、2回にわたる長州征伐への派兵を権太夫の反対により断念せざるをえないという状況になった。
そして慶応4年(1868)1月5日、藩主の意志とは別に朝廷との間に結ばれた密約により朝廷に恭順した淀城は、門を閉じ幕府軍の入城を拒否した。正邦も1月23日に内国事務総裁を辞し、 2月21日に老中職も辞し淀藩に退去する。藩内での尊皇派と佐幕派の目立った争いもなかったようだ。その後、版籍奉還により淀藩知事となるが廃藩置県でその座を退き、その後官職に着くことはなかったようだ。そして明治17年(1884)には子爵を授かっている。鳥羽伏見の戦後は新政府に対して恭順の姿勢を貫いた結果だろう。
淀城跡公園内には「淀城址」の石碑とともに「田邊治之助君記念碑」がある。田辺治之助は田辺権太夫の二男で、大手門の守備を指揮していた。1月5日の敗戦により、富の森と千両松から大量の幕府軍が納所を経て淀城下に撤退してきた。淀城に立て篭もり新政府軍の進撃を食い止め、ここで反転することを期していいた。それにもかかわらず幕府の重職を担う淀藩が城門を閉じて入城を拒否することは予想もしていなかっただろう。多くの幕府軍は迫り来る新政府軍を見て橋本まで撤退したが、一部の幕府軍は淀城内に乱入した。このことの責を負って治之助は自刃した。
「いわえもん」さんの獺祭ブログには碑文(http://blogs.yahoo.co.jp/iwaemon21/19427711.html : リンク先が無くなりました )が記述されている。 これによると鳥羽伏見の戦の70周年となる昭和12年(1937)に建立されたこと、そして碑文が子爵稲葉正凱によるものであることが分かる。正凱は安房館山・稲葉氏の末裔に当たるらしい。もともと下総佐倉藩から移封されて淀に入っていることは、同じ淀城跡公園内にある淀城址の碑文からも分かる。こちらも稲葉正凱が稲葉侯御移封二百年記念会として大正12年に記している。
また淀城内には與杼神社と稲葉神社がある。與杼神社はもともと宮前橋の下流、桂川右岸の川原あたり(乙訓郡水垂村)にあったものが、桂川河川敷の拡幅工事に伴い、明治35年(1903)に現在地に移転してきた。稲葉神社はこれより古く、明治18年(1886)に藩祖稲葉正成を祀る神社として建立された。明治4年(1872)に淀城は廃城となるが、その後も城地は稲葉家の所有であり、これが淀町(当時)に寄付されたのが昭和28年(1953)のことであった。
淀城跡公園と京阪電鉄淀駅の周辺にはいくつかの碑が設置されている。
・一口村安養寺/淀川渡場径
・淀城故址
・唐人雁木旧趾
・淀小橋旧趾
いずれも三宅安兵衛遺志である。唐人雁木旧趾と淀小橋旧趾の碑は建立された地から現在の場所に移して保存されている。
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