象山先生遭難碑
象山先生遭難碑(しょうざんせんせいそうなんひ) 2008/05/15訪問
三条小橋の東橋詰に、「佐久間象山・大村益次郎遭難碑北へ約一町」の道標が建つ。三条通と木屋町通の交差部分にあるため、多くの人の目に触れるものとなっている。私が初めてこの碑を見たのはかなり昔のことになるが、道標としてはかなり立派なものであったためか、この場所で暗殺が行われたと思い込んでいた。この碑は昭和10年(1935)老舗料亭・新三浦の白井凌三が建てている。御池通の先にある「象山先生遭難碑」が大正4年(1915)、その脇にある「大村益次郎卿遭難碑」が昭和9年(1934)に建立されている。年代的には、大村益次郎卿遭難碑の建立後すぐにこの道標が作られたようだ。
三条小橋から1町つまり100メートル北とあるが、実際には木屋町通を北に300メートル進み、御池通を越えた先に2つの遭難碑はある。
天保13年(1842)象山が仕える松代藩主真田幸貫が老中兼任で海防掛に任ぜられる。藩主から洋学研究を任じられ、江川太郎左衛門の下で兵学を学ぶことになる。江川太郎左衛門は伊豆国田方郡韮山の世襲代官であるため、代々の当主を太郎左衛門と呼んでいる。幕末の有名な江川太郎左衛門は、36代目にあたる江川英龍である。英龍は天保12年(1841)に高島秋帆から洋式砲術を学び皆伝を得て、翌12年(1842)江戸芝に縄武館を開いている。象山は比較的早い時期にこの江川塾に入り、西洋兵学を学んでいる。温厚で思慮深い英龍と象山は性格が合わなかったようだ。さらにシーボルトや緒方洪庵に医学を学んだ黒川良安の元で天保15年(1844)頃より蘭学の教授を受けている。
江川と黒川を通じて西洋技術と兵学を身に付けた象山は、藩主に海防八策を献上する。およそ簡単にまとめると以下のようになる。
1 全国の海岸要地に砲台を築き外敵の侵略に備える
2 洋式大砲を鋳造し諸藩に分配する
3 強大な西洋船を造り江戸への食糧の運搬を行う
4 海運担当の役人の人選には不正が生じないように注意する
5 洋式軍艦を造船し海戦戦術を訓練する
6 学校を建て教育を盛んにする
7 賞罰のけじめを明らかにする
8 能力による人材登用のできる制度を確立する
嘉永3年(1850)江戸木挽町に私塾を開き砲術を教えた。その門下からは吉田松陰、勝海舟、河井継之助、小林虎三郎、坂本竜馬らが育って行った。この時期、吉田(寅次郎)と小林は象門の二虎と称せられるほどに学問に秀でていた。象山は「天下、国の政治を行う者は、吉田であるが、わが子を託して教育してもらう者は小林のみである」と評していた。虎三郎は山本有三の戯曲「米百俵」で有名な長岡藩の大参事で教育者でもある。後の松陰と虎三郎の姿を予見していることからも象山の人物を見る眼は確かなものであった。ちなみに象山は勝海舟の実妹を妻としているため海舟とは義兄弟となる。
嘉永6年(1853)ペリーの浦賀来航の際は、象山は浦賀を視察している。しかし嘉永7年(1854)再び来航したペリーの艦隊に門弟の吉田松陰が密航を企て、失敗するという事件が起こる。象山もこの事件に連座して伝馬町に入獄、更にその後は文久2年(1862)まで、松代での蟄居を余儀なくされる。この間も西洋研究に没頭し、大砲製造、地震予知、電池の製作、電信実験などを成功させている。またこの時期に、幕末を動かしていく高杉晋作、久坂玄瑞、中岡慎太郎らが象山を訪ねている。
文久2年(1862)赦免されると、元治元年(1864)3月、14代将軍・徳川家茂と一橋慶喜に招かれ上洛する。象山は諸侯や公卿らに公武合体と孝明天皇を防備の弱い京都から、彦根へと移す開国遷都を説いて廻る。尊攘派を刺激し天誅の標的となった。元治元年(1864)7月11日三条木屋町で河上彦斎、前田伊左衛門等によって暗殺される。享年54、上洛からわずか4ヶ月後のことであった。
司馬遼太郎は、「世に棲む日日」の中で吉田松陰を革命の第一世代と位置づけている。松陰は思想家であり、やがて革命を引き起こす弟子達の教育者でもあった。佐久間象山もまた新たな時代のための道筋を提示した思想家であったと思う。第二世代の高杉晋作や坂本龍馬のように、自らの行動力によって革命を推し進めるようなことは松陰にも象山にもなかった。しかし第二世代の革命家にとって必要とされる理念や進むべき方向、特に攘夷の嵐が収まった後の日本国として行うべきことを全て準備していた。ただそれが余りにも早く、そして先鋭に現れたため、この時代の嵐に押しつぶされてしまったと考えるべきだろう。
天保5年(1834)肥後国飽田郡熊本新馬借町(現在の熊本市新町)小森家に4人兄弟の次男として生まれる。兄の半左衛門が小森家を継ぐことになり、彦斎は11歳で谷尾崎町の河上彦兵衛の養子に出される。それから5年間、肥後藩の藩校・時習館に通い学問と共に剣を学ぶ。16歳になり、お城勤めの坊主職となる。周りから軽く見られる職であっても真面目に働き、文武に磨きをかけていた。この頃、彦斎は宮部鼎蔵や轟武兵衛の勤王派の志士に出会っている。この出会いによって勤王の志を強く持ち、林桜園の原道館に入門し、尊皇攘夷を理論として学ぶようになっていく。
文久2年(1862)朝廷からの京都警護の要請を受けた熊本藩は、藩主の弟である長岡護美を派遣する。肥後勤王党の宮部鼎蔵らとともに坊主職が解かれた彦斎は上京する。文久3年(1863)八月十八日の政変が起こり、長州派の公卿達は長州藩とともに京を追放される。この時、肥後藩も警備の任を解かれるが、宮部鼎蔵ら勤王派の志士達は脱藩して長州に入る。政変の前より三条実美の信頼を得ていた彦斎は、卿の警護を務め長州へ移る。彦斎にとって最初の京は、およそ1年で終わる。
その後、尊皇攘夷派の再挙を謀るため、宮部鼎蔵と松田重助は再び上洛するが、元治元年(1864)6月5日池田屋事件に遭遇し、両名とも新選組に殺害される。この知らせを大楽源太郎から聞いた彦斎は悲憤し、急いで長州から京都へ上る。 象山が尊王攘夷志士たちの情報を幕府方に知らせ、新選組が池田屋を襲撃したと考えた彦斎は斬奸状を書き、元治元年(1864)7月11日、因幡松平家の前田伊左衛門と平戸脱藩浪士松浦虎太郎・南次郎の3名と謀り、象山の宿舎で待ち伏せた。三条通側から馬に乗って木屋町通に入ってきた象山を北へ追い込み、そして宿舎の手前で斬殺している。斬奸状には、西洋学を唱え開国を公卿達に吹き込み、会津や彦根と共謀し天皇を彦根城へ奉ることを企てるなど国の行く末を誤るため、天誅を加えるという旨が書かれていた。人斬りという異名を持つにもかかわらず、記録として残るものはこの佐久間象山のみである。
彦斎に象山暗殺を教唆したのは長州の久坂玄瑞とも品川弥二郎とも言われているがその真偽は明らかでない。池田屋事件の報復以上に長州にとって、たとえ吉田松陰の師であったしても、象山は一橋慶喜と共謀し公武合体と開国を推進する排除すべき人物であったことは確かである。
この8日後の元治元年(1864)7月19日禁門の変が起こる。国司信濃隊に加わり、幕府軍と戦うが敗れ去る。彦斎は鳥取藩邸に身を隠し、その後は長州へ逃げ戻る。京で人斬り彦斎と恐れられていたにも関わらず、八月十八日の政変の前とあわせても僅かな期間しか京にいなかったことに驚かされる。
元治元年12月(1865)高杉晋作と伊藤俊輔(後の伊藤博文)が功山寺挙兵を行うと、彦斎も井上聞多・品川弥二郎・山田顕義などと共に呼応する。その後、奇兵隊の山県狂介や藩の諸隊も立ち上がり、俗論党を打ち破ることとなる。これにより長州の藩論は倒幕に統一される。
倒幕派政権が長州に樹立し、慶応2年1月(1866)に薩長同盟が結ばれると、再び幕府による第二次長州征伐が慶応2年(1866)6月から始まる。彦斎は肥後藩を説得するために長州藩を抜けて藩に戻る。当時の肥後は佐幕藩であり、四境戦争にも幕府軍として小倉口に派兵していた。彦斎は捕らえられ脱藩罪で投獄される。
明治維新において肥後藩は他の藩と比べても実に多くの時間を無駄に費やした。新政府に軍を差し出すのを決定したのは、鳥羽伏見の戦いで幕府軍が敗れてから6ヵ月後の慶応4年(1868)7月のことであった。彦斎は慶応4年(1868)2月に出獄し、10月に鶴崎兵隊長に任命されている。最も幕末の社会情勢が変わった1年以上の年月を獄舎で暮らした彦斎にとって、世の中が攘夷から開国に変わっていることが理解できなかったことと思う。出獄後、桂小五郎や三条実美に面会し、攘夷の続行を訴えたようだが、それも適わなかった。
明治4年(1871)12月、攘夷派の公卿・愛宕通旭と外山光輔を押し立て、明治政府の転覆を謀ったクーデターである二卿事件への関与や、参議広沢真臣暗殺の疑いにより、斬首に処せられている。大村益次郎暗殺事件や二卿事件の首謀者と目されていた長州藩士・大楽源太郎と接触によって疑いがかけられたようだが、大した取調べもないまま罪が確定している。
「不容易陰謀相企候始末 不届至極に付庶民に下し斬罪申付」
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