文書と写真・地図による「記憶」の再現

池田屋騒動址



池田屋騒動址(いけだやそうどうのあと) 2008/05/15訪問

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池田屋騒動址

 三条通が高瀬川に交わる三条小橋から西に4軒目(空地があるので実質的には5軒目となる)、明治屋京都ビルディングの東隣の店先に池田屋騒動址の碑が建つ。訪問したときも店は閉じられ、管理地の看板が出ていた。確か以前訪れた時はパチンコ屋だったような記憶が残っている。碑のほかにも三条小橋商店街振興組合の設置した説明板が建てられていた。ここは現在、「海鮮茶屋 池田屋 はなの舞」となっていると聞く。なお店内には映画などの階段落ちのシーンで知られる7メートルの大階段とともに、東映の監修で当時の池田屋旅館の帳場が再現されている。もともと大階段は存在していないので歴史学者に聞く訳にもいかず、映画会社に監修してもらって映画のセットを再現しているあたりが面白い。これが当時の池田屋の姿と信じる人がいないことを願う限りである。
 文久3年(1863)薩摩藩と会津藩、そして尊攘派を快く思っていなかった孝明天皇や公武合体派の公家が連携し八月十八日の政変を起こす。この政変により尊攘派公家、長州藩主毛利敬親・定広父子の処罰が決議され、長州藩兵も堺町御門の警備を免ぜられる。朝廷を追放された攘夷派の三条実美・沢宣嘉ら公家7人は、長州藩兵と共に落ち延び、いわゆる七卿落ちとなる。これ以降、京都では公武合体派が勢力を伸ばし、尊攘派は圧迫されることとなった。

 元治元年(1864)6月5日早朝、新選組は京都河原町四条上ル東にある諸藩御用達・枡屋に踏み込み、古高俊太郎を捕縛する。武器弾薬とともに諸藩浪士の書簡が発見される。俊太郎は壬生屯所に連行され、前川邸の蔵で土方歳三による厳しい取調べを受けたとされている。映画等では、俊太郎は逆さ吊りにされ、甲から足の裏に打ち抜かれた五寸釘に百目蝋燭を立てられ火をつけられるという拷問を受け、以下のような自白を行うこととなっている。
     1 強風の日を選び御所に火を放つ
     2 京都守護職・松平容保を殺害し、中川宮を幽閉する
     3 天皇を長州へ連れ去る
     4 既に計画実行のための志士が多数上洛し、市中で集会を行う

 この自白を元に同日夜、新選組は志士の集会場所を求めて浪士改めを行い、池田屋事件へとつながっていく。

 新選組に捕縛された古高俊太郎とはどのような人物であったのか?
 その後、俊太郎は枡屋へ養子に入り枡屋喜右衛門と名乗る。枡屋は筑前福岡藩の御用達でもあり、社会的にも信用のある商人として大名や親王・公家屋敷を出入りすることが可能であったと考えられる。
 また古高俊太郎は長州萩藩毛利家と母方の祖父を介して遠い縁がある。このあたりのことについては、中村武生氏の「見直し・新選組」3 - 池田屋事件その1(http://homepage2.nifty.com/NakamuraTakeo-HP/shin/minaoshi3.html : リンク先が無くなりました )に詳しく説明されている。俊太郎の役割を武器調達役ではなく、朝廷に対する七卿落ち後の長州藩の仲介役とこの論文では位置づけている。特に有栖川宮家と長州藩の会合の仲立ちを行っていたことが書簡などに残されている。古高俊太郎が捕縛されたことにより、善後策を練るために池田屋に集った志士たちは、俊太郎奪還について話し合ったと言われている。何故、俊太郎を取り戻さなければならなかったのか?御所に火を放つ計画が洩れるのを防ぐためだったのか?中村氏は、御所放火の計画の存在を否定はしていないが、俊太郎の持つ公家社会へのパイプを維持するためだと考えているように見受けられる。これは説得力のある説明であると思う。

 それでは御所放火計画は存在していなかったのか?当時、御所放火は噂として流布しており、当然新選組にも伝わっていたようだ。そう意味で新選組にとって、俊太郎の自白を待たずに知りえていたストーリーであったのではないかと思われる。この日の早朝に捕縛し、壬生屯所で拷問にかけ、自白を得た後に京都守護職と所司代に報告している。この間があまりにも短時間に行われていることが気になる。再び中村氏の説に従えば、新選組は俊太郎を「何者」かを知らず捕縛し、「かなり怪しい」という勘だけで出兵していることとなる。この日の早朝から行われてきたことを整理すると確かにこのような状況となる。しかし新選組には、俊太郎を捕縛したことによってこの日の夜に集会が行われるという確証を得ていたのではないだろうか?本人の自白が得られなくても押収した書簡等からある程度の人物であることは認識していただろう。何を計画しているか判らないが、とりあえず噂となっている御所放火を理由に取締りを開始することとしたのであろう。

 元治元年(1864)6月5日午後、壬生屯所から三々五々隊士は市内に出て行く。そして日没あたりに、隊士達は八坂神社の石段下にあった祇園町会所に集まる。現在四条通りに沿って京都祇園ホテルがあるが、その先の駐車場あたりに会所があったと思われる。近藤隊10名、土方隊24名に別れ、近藤は鴨川の西側、土方は東側の探索を四条通から三条通に向けて開始する。いくつかの怪しいと思われる旅籠の宿改めの後、近藤隊が池田屋に到着したは、亥の刻(22:00)を過ぎた頃と言われている。
 「図解・池田屋事件」のHP(http://www.webvider.com/ikedaya/ : リンク先が無くなりました )では、池田屋の平面図をもとに、どのように斬り合いが行われたかを分かりやすく説明されているので是非ご参照下さい。当日、池田屋にいたと思われる浪士は20人を越えていたと考えられている。それが2階で集会している所に、近藤勇、沖田総司、永倉新八、藤堂平助の4名が宿改めとして、中に入っていく。安藤早太郎、奥沢栄助、新田革左衛門は池田屋の北側の裏口を守り、それ以外の隊士は三条通側を固めていたと考えられる。まず近藤と沖田が2階に、永倉と藤堂が1階を受けもつ。多数の浪士に対し少数の新選組が襲撃する形となったため、すぐに乱戦となり、誰が誰に斬られたかは明らかになっていない。池田屋の北側には長州藩邸があり、多くの浪士は裏口へ廻った。脱出のため必死で斬り込む者も多く、裏口を固めていた奥沢は死亡し、安藤と新田も負傷し1ヶ月後に死亡している。
 乱戦の中、藤堂は額に太刀を受け、血が目に入り戦線離脱。映画では沖田も喀血し卒倒しているが、京の暑さで貧血を起こしたと現在は考えられている。残ったのは近藤と永倉の2名であったが、その永倉も左手の親指付け根に刀傷を受け、戦闘力が低下する。近藤が池田屋に踏み込んだ1時間後に土方隊が現場に到着し、浪士斬殺から捕縛に替わる。

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池田屋騒動址 受難者

 三条小橋商店街振興組合が設置した説明板によると池田屋騒動の受難者は、古高俊太郎と池田屋惣兵衛を除くと下記のようになる。

     宮部鼎蔵  肥後熊本藩士
     吉田稔麿  長州藩士
     北添佶摩  土佐出身
     大高又次郎 播磨林田藩士
     石川潤次郎 土佐藩士
     杉山松介  長州藩士
     松田重助  肥後熊本藩士
     広岡浪秀  長州出身
     望月亀弥太 土佐藩士
     福岡佑次郎 伊予松山藩士

 池田屋騒動は新選組や京都守護職にとっても想定外の成果だったのではないだろうか?多くの尊皇攘夷派の志士を斬殺あるいは捕縛により、京都での治安上の安定が得られるようになった。さらにそれを強固なものにするためには、池田屋騒動の政治的利用が必要となる。再び御所放火の計画を持ち出し、強圧的な捜査の正当性と尊皇攘夷派のイメージ低下を図ったように考えられる。例え計画が存在していても、存在していなくても、あまり関係はなかっただろう。少々乱暴な言い方になるが、池田屋騒動は一会桑(一橋慶喜・会津藩・桑名藩)にとって、いずれにしても十分に利用できる価値はあったと思う。
 「パルティアホースカラー」さんのブログ(http://tosa-toad.cocolog-nifty.com/blog/2006/02/post_39c2.html : リンク先が無くなりました )では、原口清氏の「禁門の変の一考察」から先の中村武生氏の論文までを詳しく説明している。特に寄稿されたコメントにもあるように、当時の政治的な思惑だけでなく新選組の事情にも着目すべきことが多々あったようだ。まだまだ多くのことがここには存在する。
 また難を逃れることのできた桂小五郎の当日の行動は奇妙なものであったように思う。桂の自叙によると、到着が早すぎたので対馬藩邸で時間を待っている間に事件が起こったとされている。しかし長州藩京都留守居役であった乃美織江は、「桂小五郎議は池田屋より屋根を伝い逃れ、対馬屋敷へ帰り候由…」と手記に書き残している。どうも実情は乃美の手記に近かったのではないだろうか?これだけの事件に遭遇して、多くの志士が死んでいった中で長州の大立者が逃げたというのでは体面が悪かったのではないだろうか。

 八月十八日の政変で京都を追放されて以来、孝明天皇を再び長州陣営のものとするため、京都に乗り込もうとする積極策が来島又兵衛、久坂玄瑞など中心に論じられてきた。その中で池田屋騒動の報が長州に伝わると、慎重派の周布政之助、高杉晋作は沈静化に努めるが、藩論の主導は福原越後や益田右衛門介、国司信濃の三家老等の積極派に移る。長州藩は藩主の冤罪を帝に訴えると称し、挙兵する。そして元治元年(1864)7月19日禁門の変が勃発する。

「池田屋騒動址」 の地図


大きな地図



池田屋騒動址 のMarker List

No. 名称 緯度 経度
 池田屋騒動址 35.0089 135.7698
 古高俊太郎邸址 35.0042 135.77
  長州藩邸01 35.0116 135.769
  長州藩邸02 35.0111 135.7697
  長州藩邸03 35.0116 135.7703
  長州藩邸04 35.0121 135.7697
  加賀藩邸01 35.0111 135.7697
  加賀藩邸02 35.0107 135.7704
  加賀藩邸03 35.0104 135.7697
  加賀藩邸04 35.0107 135.769
  対馬藩邸01 35.0102 135.7697
  対馬藩邸02 35.0099 135.769
  対馬藩邸03 35.0096 135.7697
  対馬藩邸04 35.0099 135.7703
  彦根藩邸01 35.0077 135.7693
  彦根藩邸02 35.0075 135.7698
  彦根藩邸03 35.0077 135.7702
  彦根藩邸04 35.008 135.7697
  土佐藩邸01 35.0058 135.7693
  土佐藩邸02 35.0055 135.7698
  土佐藩邸03 35.0058 135.7704
  土佐藩邸04 35.0061 135.7698
02   祇園町会所 35.0035 135.7765
03  長州藩邸 35.0117 135.7695
04  加賀藩邸 35.0105 135.7705
05  対馬藩邸 35.0099 135.7696
06   彦根藩邸 35.0077 135.7697
07  土佐藩邸 35.0058 135.7699

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