武市瑞山先生寓居跡
武市瑞山先生寓居跡(たけちずいざんせんせいぐうきょのあと) 2008/05/15訪問
木屋町通三条上るにある京料理・金茶寮の門前には、ちりめん洋服発祥の地 の碑とともに武市瑞山先生寓居跡の碑が建っている。先斗町通は三条通で終わっているため、木屋町通の東側にあるこの金茶寮は鴨川に面し、納涼床を売り物としている。この店のHP(https://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rekishi/fm/ishibumi/html/na081.html : リンク先が無くなりました )には、この地に武市半平太が在洛中に滞在していた料亭・四国屋丹虎があり、その建物を料理旅館として蘇らせたのが現在の金茶寮であると記されている。
武市半平太は文政12年(1829)土佐国吹井村(現在の高知県高知市仁井田)の土佐藩郷士の武市正恒の長男として生まれる。武市家は土地の豪農であったが、半平太より5代前の半右衛門が享保11年(1726)に郷士に取り立てられ、文政5年(1822)には郷士でありながら当主は上士に準じる扱いがされる「白札」に昇格している。
嘉永2年(1849)城下の新町で剣術道場を開く。この道場には中岡慎太郎や岡田以蔵らもおり、後の土佐勤王党の母体となる。安政3年(1856)江戸へ出て鏡心明智流の桃井春蔵に学び、塾頭となる。当時斎藤弥九郎の練兵館に桂小五郎、千葉定吉の桶町千葉道場の坂本龍馬と共に、剣術界に名を轟かすこととなる。この時期、半平太は桂小五郎、久坂玄瑞、高杉晋作など長州藩士と交流し、尊皇攘夷へ進んでいく。
文久元年(1861)坂本龍馬、吉村寅太郎、中岡慎太郎らの同士を集め、江戸における土佐勤王党を結成している。これは土佐藩全体を勤皇に導くための政治結社であり、2年後には192名が連判に参加する規模となっている。
当時、土佐藩の藩主は山内豊範である。福井藩主・松平春嶽、宇和島藩主・伊達宗城、薩摩藩主・島津斉彬とともに幕末の四賢侯と称せられた山内豊信こと山内容堂は、安政6年(1859)隠居願いを幕府に提出し、前藩主の弟・豊範に藩主の座を譲っている。しかし14代将軍への一橋慶喜擁立働きかけたことにより、安政の大獄の一環として斉昭・春嶽・宗城らと共に容堂にも謹慎の命が下る。この謹慎により、容堂は土佐への帰国も許されず鮫洲の別邸へ移り、土佐に戻るのは文久3年(1863)である。
文久2年(1862)開国・公武合体派の土佐藩参政で・吉田東洋の暗殺を、那須信吾、大石団蔵、安岡嘉助に命じ、暗殺を実行している。その後、公武合体派の重臣を刷新し藩の要職に就いた守旧派を傀儡とし、藩政の掌握に成功する。
半平太は藩主を奉じて京に上り、他藩の志士たちと土佐藩の応接役として折衝している。さらに朝廷工作を行い、幕府に対して攘夷実行を命じる勅使を江戸に派遣することを画策する。また野口武彦氏の「天誅と新選組」の中でも触れられているように、この時期起きた京での天誅の多くに武市半平太と土佐勤王党が関係している。土佐藩は長州藩、薩摩藩と比べ京に上るのが遅く、中央の尊皇攘夷運動での土佐のプレゼンスを確保するために、多くの天誅を行ってきたことが想像できる。最初は安政の大獄で取り締まり側にいた者に対する暗殺から始まる。九条前関白の家臣島田左近が田中新兵衛らに殺され、四条河原に晒されたのが文久2年(1862)7月であった。島田左近は長野主膳と組んで井伊直弼に反逆する志士の摘発を行ってきた。同年閏8月には本間精一郎と九条前関白の諸大夫・宇郷玄蕃頭、島田左近の手足となって志士たちを捕縛してきた目明しの文吉が殺されている。そして9月には京都奉行所与力渡辺金三郎、森孫六、大河内重蔵、上田助之丞の4人が江戸に向う途中の東海道石部宿で、襲撃されて死亡している。襲撃したのは薩摩、長州、土佐藩によって構成された総勢25人及ぶ暗殺団である。この時期の京は奉行所役人でさえ命の保障がない状況に陥っていた。松平容保が京都守護職として入京するのが文久2年(1862)12月であり、後に新選組となる浪士組が会津藩お抱えとなったのが文久3年(1863)3月のことであった。
文久3年(1863)に土佐に戻った山内容堂は、同年6月に半平太の側近である平井収二郎、間崎哲馬、弘瀬健太に青蓮院宮の令旨を盾に藩政改革を断行した罪で切腹を命じている。これが土佐勤王党の獄の始まりとなった。そして文久3年8月18日に会津藩と薩摩藩によって八月十八日の政変が起き、長州藩と攘夷派の公卿が失脚する。これは長州藩の中央政界からの離脱だけに収まらず、公武合体派が主導権を握り、勤王派は急速に衰退するという大きな潮流の変化につながっていった。土佐藩においても半平太は9月に逮捕され、投獄されている。他の勤王党同志も捕縛されるか、それを逃れるために脱藩するかに分かれていった。元治元年(1864)6月、京に潜伏していた岡田以蔵が幕吏に捕えられる。入墨のうえ京洛追放になったが、すぐに土佐藩吏に捕えられ国許に搬送される。司馬遼太郎の「人斬り以蔵」では半平太に捨てられた以蔵の告白によって武市半平太の罪状は決定している。
慶応元年閏5月11日山内容堂より、君主に対する不敬行為という罪目で切腹を命ぜられる。享年36。
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