島津創業記念資料館
島津創業記念資料館(しまづそうぎょうきねんしりょうかん) 2008/05/15訪問
善導寺の斜め前には国登録有形文化財の島津創業記念資料館が建つ。建物は明治27年(1894)竣工の北棟と明治21年(1888)竣工の南棟から構成される。
島津製作所の創設者である初代島津源蔵は天保10年(1839)に京都の醒ヶ井魚棚、現在の堀川六条付近で仏具師であった島津清兵衛の次男として生まれる。源蔵は万延元年(1860)21歳で木屋町二条に出店している。この時、家業の仏具師ではなく鍛冶工であったようだ。この地は高瀬川の終着点に近く、重要な流通拠点であった。京都府は殖産興業のため明治3年(1870)勧業場や舎密局などがこの付近に設立している。日文研に収蔵されている明治11年(1878)製作の地図・精撰増補京都詳覧図を見ると、長州藩邸跡に勧業場、そしてホテルフジタ京都の北側に舎密局、そのさらに北に女紅場が作られている。明治5年(1872)新英学級及女紅場として日本で最初の女学校として、旧九条殿河原町邸、現在の丸太町通の橋詰に建てられた。この地には京都鴨沂会が建立した女紅場址の碑がある。早くも女紅場は明治9年(1876)に女学校及紅場と改称され、明治33年(1900)に寺町荒神口通に移る。そして大正12年(1923)に京都府立京都第一高等女学校と改称されている。現在の京都府立鴨沂高等学校の前身にあたる。
源蔵は舎密局に出入りするようになり、明治8年(1875)に島津製作所を創設し、このような立地を活かして教育用理化学機器の製造を始めた。この時期、源蔵はゴットフリード・ワグネルと出会い、技術者として大きな影響を受けている。
ワグネルは1831年ドイツのハノーバーで生まれ、ゲッティンゲン大学で数学者カール・フリードリヒ・ガウスや物理学者ヴィルヘルム・ヴェーバーらの指導を受け、21歳の若さで数学物理学の博士号を取得している。そして慶応4年(1868)5月ラッセル商会の石鹸工場設立という教育者でも技術者でもない、事業家として来日している。しかし製品開発などがうまくいかず計画は頓挫してしまい、明治3年(1870)より佐賀藩に雇われ有田焼の技術指導を行うこととなる。同時に大学南校(現在の東京大学)のドイツ語教師を務めていたが、文部省の設立と共に東校(後に東京医学校、現在の東京大学医学部)の数学、博物学、物理学、化学の教師として雇用されている。
明治11年(1878)2月から京都府に雇われ、舎密局で化学工芸の指導や医学校(現在の京都府立医科大学)での理化学の講義を行なう。源蔵との出会いはこの時期のことだったと思われる。しかし明治14年(1881)1月京都府の知事が槇村正直から北垣国道に替わり、官業の払い下げを進める中で舎密局なども売却され、同年2月に京都府との雇用契約が終了する。ワグネルの京都での活躍はわずか3年に過ぎないが、工業化学関連品の製造技術の普及だけに及ばず、陶磁器、七宝、ガラスの製法などについての指導も行った。現在もその功績を顕彰する碑が岡崎に建つ。
明治10年(1877)に開催された第一回内国勧業博覧会に錫製の医療器具を出展し、褒状を受けている。明治27年(1894)創業者・島津源蔵の急逝により、長男梅治郎が2代目島津源蔵となる。明治29年(1896)レントゲン博士によってX線が発見されると、島津製作所は明治30年(1897)にはX線写真の撮影に成功し、明治42年(1909)国産初の医療用X線装置を開発している。これが現在の島津製作所の主力製品の基と成っている。
島津製作所と言えば、やはりノーベル化学賞を受賞した田中耕一氏である。アメリカには11人のノーベル賞を輩出したAT&Tのベル研究所などもあるが、日本では国立大学で研究している受賞者が多い。その中で一私企業の研究者が受賞したことに大きな意義があり、この受賞を生み出した企業風土と環境はもっと賞賛されても良いのではないだろうか。
ところで島津製作所の社章は、薩摩の島津家の家紋と同じ丸に十の字である。島津源蔵の祖先にあたる井上惣兵衛尉茂一が島津義弘から家紋と島津の姓を与えられたことによる。関ヶ原合戦後、島津義弘が薩摩に遁走する際に播州に居た井上惣兵衛が義弘を援助したとも言われている。
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