文書と写真・地図による「記憶」の再現

六波羅蜜寺

真言宗智山派 補陀洛山 六波羅蜜寺(ろくはらみつじ) 2008年05月16日訪問

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六波羅蜜寺

 六道の辻と呼ばれる松原通を西福寺の角から南に下ると程なくして右手に六波羅蜜寺の石造の門柱とその奥の本堂が現れる。本堂の前の引きがないため、境内では本堂の全貌を撮影することが難しい。 西福寺と六波羅蜜寺の間、そして六波羅蜜寺の西側には京都市立六原小学校があり、六道珍皇寺の前にはハッピー六原というスーパーがある。すなわち六原と六波羅が混在している。このあたりのことは、フィールド・ミュージアム京都の中の六波羅の項でも触れている。ここでは轆轤町のもととなった轆轤原に由来しているが、六波羅蜜寺に因んだ地名と考えていることが分かる。 もともと六波羅蜜は仏教用語で、菩薩が修めなくてはならない、布施波羅蜜・持戒波羅蜜・忍辱波羅蜜・精進波羅蜜・禅定波羅蜜・智慧波羅蜜の6つの実践徳目を意味する。菩薩はこの六徳目を得て涅槃の彼岸に到る。六波羅ではなく六波羅蜜あるいは波羅蜜あるいは般若心経にも出てくる波羅蜜多が正しい使い方なのだろう。それが地名になる際に短縮されて六波羅となったと考えるのが妥当かもしれない。

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六波羅蜜寺
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六波羅蜜寺

 六波羅蜜寺は空也上人が天暦5年(951)に十一面観音像ほか緒像を造立したことに始まる。空也は延喜3年(903)に醍醐天皇の子として生まれと言われている。延喜22年(922)のころ尾張国 国分寺で出家し空也と名乗っている。この頃より在俗の修行者として諸国を巡り、南無阿弥陀仏の名号を唱えながら道路や橋を造るという社会事業を行い、幅広い帰依者を得ていた。当時の京には悪疫が蔓延していた。空也は先の十一面観音像を車に安置して市中に曵き出し、小梅干と結昆布を入れ仏前に献じた茶を病者に授けて廻った。これは村上天皇も飲まれたことから皇服茶と言うようになり、現在も正月三日間授与されている。一保堂茶舗でも大福茶として取り扱っている。天皇の服する茶が皇服茶(おうぶくちゃ)となり、そして大福茶(おおぶくちゃ)となったのだろう。
 空也は応和3年(963)鴨川岸に僧600名を集め大規模な大般若経供養会を行う。この時に六波羅蜜寺のもととなった西光寺が創建とされたとも考えられている。いずれにしても十一面観音像が造られた天暦5年(951)から応和3年(963)の間に西光寺は建立されたと思われる。
 天禄3年(972)に空也は西光寺において70歳で亡くなる。死後、貞元2年(977)比叡山の僧・中信が六波羅蜜寺と改称し天台別院とする。さらに桃山時代になると天台宗から真言宗智積院の末寺となる。都名所図会には珍皇寺とともに描かれた六波羅蜜寺の図会が残されている。この図会から六波羅蜜寺は江戸時代までは大伽藍を連ねたことが分かる。おそらく現在の珍皇寺のあたりまで境内があったことが想像される。しかし明治維新の廃仏毀釈を受けて大幅に寺域を縮小している。寺の周囲は民家に囲まれ、先に説明したように本堂を全て撮影できないように境内は狭くなっている。現在に残る主な建物は貞治2年(1363)に天台式建築で再建された本堂と弁財天堂そして宝物収蔵庫のみである。

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六波羅蜜寺

 六波羅蜜寺は空也作と言われている十一面観音立像は国宝に指定されているが、その他にも重要文化財に指定されている空也上人立像と僧形坐像(伝平清盛像)がある。空也上人立像は仏師運慶の四男康勝の作。首から鉦を下げ、右手に鉦を叩くための撞木、左手に鹿の角のついた杖を持ち、膝を露にしながら念仏を唱えながら京の町中をわらじ履きで歩く姿を写実的に表現している。空也が南無阿弥陀仏の6字を唱えると口から六体の阿弥陀が現れたという伝承を視覚的に表したものである。空也上人立像も経巻を手にした僧形坐像も歴史の教科書で見る姿そのものである。

 平氏が六波羅を拠点とした時期は、平正盛が一族のために供養堂を建立し、その子忠盛が六波羅館を築いた頃からである。正盛・忠盛父子は伊勢平氏であるため伊勢や東国方面への街道が近くを通る六波羅に拠点を置いたとも考えられている。そして正盛の孫にあたる平清盛の時代に入ると、六波羅は平氏政権の中心地となる。しかし寿永2年(1183)平氏が都落ちする際に六波羅館は焼失する。
 その後、六波羅の地は源頼朝に与えられ、京都守護となった北条時政が京都守護の庁舎を置き、御家人の宿舎が築かれるようになる。しかし実質は、六条堀川に頼朝の館が存在し、時政以後の京都守護も公家出身者や京都在住が長い武士に移っていくと洛中の自分の屋敷を庁舎とするようになる。そのため六波羅は政治の中心から、都に拠点を持たない東国武士の居住地になっていった。

 承久の乱が終結すると、承久3年(1221)鎌倉幕府は京都守護を改組し、朝廷側の動向を監視する機関として六波羅探題を設置する。それとともに六波羅探題の周辺には探題に仕える武士達の邸宅が設置される。そして元弘3年(1333)足利尊氏によって六波羅探題は攻められ、滅亡する。
 足利将軍室町第址の項で記したように、室町幕府は洛中に拠点を移したため、六波羅は再び寺院などが建てられて信仰の町、参詣客を相手とした芸能や茶売りなどの町に戻る。
 平氏六波羅第・六波羅探題府址の碑は六波羅蜜寺の東南にある京都市立洛東中学校内に残されている。

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