建仁寺
臨済宗建仁寺派大本山 東山 建仁寺(けんにんじ) 2008年05月16日訪問
六波羅蜜寺を出て、再び西福寺のある松原通を越えて北に進むと八坂通に突き当たる。この道を西に曲がり進むと民家が途切れ、右手に銅版葺切妻造の四脚門が現れる。小振りではあるが非常に簡素で力強い門である。これが建仁寺の勅使門である。別格の南禅寺、天龍寺、相国寺に次ぐ京都五山の第三位に格付けられているのにしては、質素な門である。
勅使門の脇にある門から境内に入ると勅使門、放生池、三門、法堂そして方丈が南北軸の上に配置されている。
建仁寺は臨済宗建仁寺派大本山で山号を東山と称する。
建仁2年(1202)2代将軍源頼家が寺域を寄進し、栄西禅師を開山として建仁寺は建立される。一般に建仁寺は日本最初の禅寺と言われているが、これは誤りである。建久2年(1191)宋より帰朝した栄西は、翌建久3年(1192)筑前香椎に建久報恩寺を建立している。同時期、筑前肥後で布教活動を行っているおり、この地に福慧光寺、千光寺なども建てられている。そして建久6年(1195)宋の人が建立した博多百堂の跡に聖福寺を建立する。山門には元久元年(1204)後鳥羽天皇により贈られた「扶桑最初禅窟」の額が残されており、日本最初の禅寺、禅道場であるとされている。
日本臨済宗の開祖である明菴 栄西は永治元年(1141)吉備津宮(現在の岡山県岡山市)の権禰宜・賀陽貞遠の子として生まれている。久寿元年(1154)14歳で比叡山延暦寺にて出家得度している。以後、延暦寺、吉備安養寺、伯耆大山寺などで天台宗の教学と密教を学ぶ。仁安3年(1168)南宋に留学する。当時の南宋では禅宗が繁栄しており、形骸化した日本の天台宗に疑問を感じていた栄西は、禅こそが仏教復興に必要だと感じる。文治3年(1187)再び入宋し、インドへの渡航を願い出るが許可されず、天台山万年寺の虚庵懐敞に師事する。虚庵懐敞より臨済宗の嗣法の印可を受け、建久2年(1191)帰国する。
当時日本に入ってきた禅宗は、既存宗派との間に軋轢を生じさせている。栄西が京で禅宗を起こす運動を始めると延暦寺や興福寺などの天台宗から排斥が行われ、建久5年(1194)には朝廷から禅宗停止の宣旨が下される。京での布教運動に限界を感じた栄西は、建久9年(1198)興禅護国論を執筆し、禅が既存宗派を否定するものではなく仏法復興に重要であることを説き、幕府の庇護を得るため鎌倉へ下向する。
京の地を離れて新たな武家政権を築こうとしている鎌倉幕府にとって、奈良や京で既存の権力構造を保持している宗教とは異なり、禅宗に政治的な可能性を感じたのではないだろうか。そして禅の自己鍛錬と瞑想.を強調する点が武士に好まれ、禅宗と武家政権との関係が始まる。正治2年(1200)北条正子を開基、栄西を開山として鎌倉に寿福寺が創建され、建仁2年(1202)源頼家の寄進により京に建仁寺が建立される。
政治権力に追従する栄西の布教活動には、当時から多くの批判があったように伝わる。特に大師号を生前に受けようとした行為に対しては、天台座主の慈円が愚管抄で「増上慢の権化」と強く罵っている。栄西は権僧正に栄進した後、建保3年(1215)で亡くなっている。享年75。禅宗の開祖であるにも関わらず大師号は諡られなかった。
このような時代背景があるため、創設当初の建仁寺は禅・天台・密教(真言)の三宗兼学の道場であった。創建から半世紀以上経た正元元年(1259)には宋僧で建長寺の開山である蘭渓道隆が11世住職として入寺すると禅の作法、規矩が厳格に行われるようになり純粋な禅の寺院となる。
建仁寺は、応仁の乱による焼失のほか、応永4年(1397)、文明13年(1481年)など度々火災にあっており、創建当時の建物は残念ながら残っていない。
明治に入り臨済宗建仁寺派として分派独立し、大本山となるが、廃仏毀釈、神仏分離により塔頭の統廃合が行われ、土地を政府に上納したことにより境内が半分近く縮小されて現在となっている。
先の勅使門は平教盛あるいは館門を応仁の乱後に移築したと伝わるが確証はない。望闕楼と呼ばれる三門も浜名郡雄踏町(現在の静岡県浜松市)の安寧寺から江戸時代末期の建築を大正12年(1923)に移築している。法堂は江戸時代中期の明和2年(1765)に建立。方丈は毛利氏の外交僧として活躍した安国寺恵瓊が、広島の安国寺より室町時代の建物を慶長4年(1599)に移築している。昭和9年(1934)の室戸台風で倒壊し、昭和15年(1940)に復旧されている。
また栄西は中国から茶種を持ち帰り、栽培を奨励し、喫茶の法を普及したことで有名である。日本に茶が入ったのは、古く奈良時代のことと考えられている。平安時代には、貴族や僧侶など上流社会の間に喫茶が愛用されるようになる。栄西は一部の上流社会だけに限られていた茶を、さらに広く一般社会にまで拡大している。
喫茶の普及と禅宗とは深い関係がある。禅宗僧侶の集団修道生活の規則は、すでに唐代に確立している。清浄なる衆僧の規則を清規と呼び、その中には茶礼、点茶、煎茶や茶についての儀式が多く含まれている。特に座禅の際行う茶礼は、眠気覚ましとして用いられことから修道にはなくてはならないものとされている。
また座禅修行に限らず、茶は保健上から良薬であるとしたのが、栄西が残した喫茶養生記である。「茶は養生の仙薬・延齢の妙術である」という巻頭言のもとに、喫茶の法、茶樹の栽培、薬効など茶に関して総合的に纏めている。
栄西が南宋から持ち帰った茶種を筑前の背振山に植えたものが岩上茶の始まりとされている。栄西は高山寺の明恵上人にも茶種を贈っていることから、栂尾茶の創始にもつながっている。ちなみに宇治茶はこの栂尾から移されたものである。
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