十樂院上陵
十樂院上陵(じゅうらくいんのうえのみささぎ) 2008年05月16日訪問
再び知恩院の三門下に出る。ここから神宮道を北に進むと、東大路通から西に走る華頂道に出会う。この道の正面には知恩院の黒門があり、神宮道と華頂道の交差点には柵で囲まれた石がある。これは忘れ傘や鶯張りの廊下とともに知恩院の七不思議に数えられている瓜生石である。知恩院が建立される前からあったとされる大きな石で、一夜にしてこの石から蔓が延びて花が咲き、瓜が実ったという言い伝えがある。
さらに神宮道を北に進むと、知恩院と青蓮院の間に小さな門が現れる。ここが第95代花園天皇の御陵・十樂院上陵の入口となっている。
花園天皇は永仁5年(1297年)持明院統の伏見天皇の第四皇子として生まれる。延慶元年(1308)大覚寺統の後二条天皇の崩御に伴い12歳で即位する。在位期間の前半は父の伏見上皇、後半は兄である後伏見上皇の院政が敷かれる。文保2年(1318)大覚寺統の後宇多天皇の第二皇子である尊治親王に譲位する。この親王が後醍醐天皇となる。
退位後は光厳天皇の養育を行い、元徳2年(1330)に記述した「誡太子書」は、来るべき動乱の時代を予見した文章として名高い。また、禅宗の信仰に傾倒し、建武2年(1335)に円観について出家し、法名を遍行とする。宗峰妙超・関山慧玄を師とし、暦応5年(1342)仁和寺花園御所を寺に改めて妙心寺を開基する。貞和4年(1348)花園萩原殿において52歳で崩御。
歌道に優れ、京極派の重要なメンバーの一人で、17番目の勅撰集「風雅和歌集」の監修を行う。文人肌で信心深かく、読経・念仏を欠かさなかったなどと言われている。
十樂院上陵はこの門より東に150メートル入った青蓮院の庭園の東上方、知恩院・小方丈の北側に位置する。
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