文書と写真・地図による「記憶」の再現

知恩院



浄土宗総本山 華頂山 知恩院(ちおんいん) 2008年05月16日訪問

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知恩院 三門

 ねねの道を北に進むと祇園閣のある大雲院に突き当たる。ここを右に折れ、円山音楽堂を右手に見ながら北に向かって歩くと円山公園の中に入り込む。そのまま公園内を横切り、南門をくぐると右手に知恩院の巨大な三門が現れる。

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知恩院 女人坂を上る
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知恩院 男坂から三門を眺める

 知恩院は、浄土宗の宗祖・法然が東山吉水、現在の知恩院勢至堂付近に営んだ草庵を起源としている。

 法然は平安時代の末期、長承2年(1133)に現在の岡山県にあたる美作国久米南条稲岡庄、押領使(律令制の令外官の一つ。警察・軍事的官職)・漆間時国の長子として生れ、幼名を勢至丸という。勢至丸が9歳のとき、父の時国は源内武者貞明の夜襲を受け不意討ちに倒れる。父の遺言により仇討ちを断念し、比叡山に登る。初めは源光上人に師事するが、15歳の頃に同じ比叡山の皇円の下で得度し、比叡山黒谷の叡空に師事して「法然房源空」と名のる。この後、法然は遁世の求道生活に入る。

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知恩院 御影堂

 当時、政争から内乱が相次ぎ、人々の間には飢餓や疫病がはびこっていた。地震など天災にも見舞われ、世は不安と混乱の中にあった。それにもかかわらず仏教は、厳しい修行によって自己の煩悩を取り除くことはあっても、民衆を救う力は失っていたとも言える。
 承安5年(1175)法然43歳の時、善導の「観無量寿経疏」によって専修念仏、つまり「南無阿弥陀仏」とただ一心に称えることにより、貴賎や男女の区別なく西方極楽浄土へ往生できるという考えにたどり着く。

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知恩院 経蔵

 法然はこの年に比叡山を下り、東山吉水に住み、念仏の教えを広める。これが浄土宗の立教とされている。
 元久元年(1204)比叡山の僧徒は専修念仏の停止を迫って蜂起するなど既存仏教勢力からの激しい弾圧が行われる。承元元年(1207)後鳥羽上皇によって念仏停止の断が下され、法然は土佐国に流罪が決まる。しかし74歳だった法然は土佐まで赴くことはなかった。九条兼実の庇護により九条家領地の讃岐国に配流地が変更され、讃岐で10ヶ月ほど布教している。その後、法然に対し赦免の宣旨が下ったものの入洛は許されず、摂津の勝尾寺で滞在する。ようやく建暦元年(1211)11月、法然に入洛の許可が下り、帰京する。しかしその2ヵ月後の建暦2年(1212)1月25日、東山吉水で死去する。

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知恩院 鎮守八幡宮と拝殿

 門弟たちは上人の廟を東山吉水に作るが、没後15年の嘉禄3年(1227)延暦寺の衆徒によって破壊される。やむなく安貞2年(1228)その亡骸を西山粟生野(粟生光明寺)に移して荼毘にふすこととなる。文暦元年(1234)法然の弟子にあたる勢観坊源智が、墓所を修理し遺骨を納め、仏殿、御影堂、総門を建て再興される。四条天皇から「華頂山知恩教院大谷寺」の寺号を下賜され、法然上人を開山第一世と仰ぐようになる。その後も永享3年(1431)の火災や応仁の乱などで焼失するが、その都度再興がなされてきた。

 浄土宗の総本山として知恩院の地位が確立するのは、室町時代の後期とされている。そして現在のように知恩院の建物が拡充したのは、徳川時代になってからのことである。徳川家は古くから浄土宗に帰依しており、特に徳川家康は慶長3年(1608)から知恩院の寺地を拡大し、諸堂の造営を行ってきた。造営は2代将軍徳川秀忠に引き継がれ、現存の三門は元和7年(1621)に建設される。寛永10年(1633)の火災で、三門、経蔵、勢至堂を残しほぼ全焼するが、3代将軍徳川家光により再建が進められ、寛永18年(1641)までにほぼ完成している。ここまで徳川家が知恩院の造営に力を入れたのは、京都における徳川家の拠点と徳川家の権勢を誇示する政治的な背景もあったと考えられている。

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知恩院 法然上人御廟への参道

 東大路通から延びる知恩院道は緩やかに登るが、元和7年(1621)建立の五間三戸の二重門 国宝三門の辺りから傾斜が強くなり、将軍塚をピークとする華頂山の裾野に諸堂が建てられていることが分かる。三門を潜ると中央に男坂、右側に女人坂が現れる。再び2つの坂が合流する台地の北側に寛永16年(1639)建立の入母屋造本瓦葺の国宝本堂・御影堂、さらにその北側に重要文化財の集会堂が並び建つ。この集会堂は800年大遠忌記念事業として平成17年(2005)より23年まで半解体工事が行われている。そして平成23年(2011)に行われる大遠忌後に御影堂の修理工事に着手し、平成31年(2019)に完成する予定とある。知恩院の境内では向こう10年間工事が続く。

 除夜の鐘で有名になった延宝6年(1678)建立の大鐘楼は、三門を潜り、男坂を登りきった先にある寶佛殿の裏側、小高い場所に建てられている。重要文化財に指定されている梵鐘は、寛永13年(1636)鋳造で、鐘楼より古いものである。集会堂の東側には寛永18年(1641)に建立された檜皮葺き・入母屋造りの大方丈と小方丈が並ぶ。この方丈の東側には方丈庭園が広がり、その上方には法然上人御廟と重要文化財の勢至堂が配されている。

 知恩院は、浄土宗の宗祖・法然房源空(法然)が東山吉水(よしみず)、現在の知恩院勢至堂付近に営んだ草庵をその起源とする。法然は平安時代末期の長承2年(1133年)、美作国(岡山県)に生まれた。13歳で比叡山に上り、15歳で僧・源光のもとで得度(出家)する。18歳で比叡山でも奥深い山中にある西塔黒谷の叡空に師事し、源光と叡空の名前の1字ずつを取って法然坊源空と改名した。法然は唐時代の高僧・善導の著作『観経疏』を読んで「専修念仏」の思想に開眼し、浄土宗の開宗を決意して比叡山を下りた。承安5年(1175年)、43歳の時であった。「専修念仏」とは、いかなる者も、一心に弥陀(阿弥陀如来)の名を唱え続ければ極楽往生できるとする思想である。この思想は旧仏教側から激しく糾弾され、攻撃の的となった。法然は建永2年(1207年)には讃岐国(香川県)に流罪となり、4年後の建暦元年(1211年)には許されて都に戻るが、翌年の1月、80歳で没した。

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知恩院 黒門

 法然の住房は現在の知恩院勢至堂付近にあり、当時の地名を取って「吉水御坊」「大谷禅坊」などと称されていた。ここでの法然の布教活動は、流罪となった晩年の数年間を除き、浄土宗を開宗する43歳から生涯を閉じた80歳までの長きにわたり、浄土宗の中心地となった。ここに法然の廟が造られ、弟子が守っていたが、嘉禄3年(1227年)、延暦寺の衆徒によって破壊されてしまう。文暦元年(1234年)、法然の弟子にあたる勢観坊源智が再興し、四条天皇から「華頂山知恩教院大谷寺」の寺号を下賜された。その後も永享3年(1431年)の火災や応仁の乱などで焼失するが、その都度再興されている。

 現存の三門、本堂(御影堂)をはじめとする壮大な伽藍が建設されるのは江戸時代に入ってからのことである。浄土宗徒であった徳川家康は慶長3年(1608年)から知恩院の寺地を拡大し、諸堂の造営を行った。造営は2代将軍徳川秀忠に引き継がれ、現存の三門は元和7年(1621年)に建設された。寛永10年(1633年)の火災で、三門、経蔵、勢至堂を残しほぼ全焼するが、3代将軍徳川家光のもとでただちに再建が進められ、寛永18年(1641年)までにほぼ完成している。徳川家が知恩院の造営に力を入れたのは、徳川家が浄土宗徒であることや知恩院25世超誉存牛(ちょうよぞんぎゅう)が松平氏第5代長親の弟であること、京都における徳川家の拠点とすること、徳川家の威勢を誇示し、朝廷を牽制することといった、政治的な背景もあったと言われている。

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知恩院 瓜生石

「知恩院」 の地図


大きな地図



知恩院 のMarker List

No. 名称 緯度 経度
01  知恩院 御影堂 35.0062 135.7838
02   知恩院 集会堂 35.0058 135.7834
03  知恩院 三門 35.0047 135.7818
04  知恩院 大方丈 35.0058 135.7841
05   知恩院 小方丈 35.0061 135.7844
06   知恩院 法然上人御廟 35.0056 135.7851
07   知恩院 勢至堂 35.0057 135.7849
08  知恩院 経蔵 35.0049 135.784
09   知恩院 大鐘楼 35.0042 135.7839
10  知恩院 男坂 35.0047 135.7822
11  知恩院 女人坂 35.0044 135.7822

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