徘徊の旅の中で巡り合った名所や史跡などの「場所」を文書と写真と地図を使って保存するブログ

粟田神社



粟田神社(あわたじんじゃ) 2008年05月16日訪問

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粟田神社 鳥居には旧社名の感神院新宮の額がかかる

 青蓮院の長屋門と楠を見ながら、再び神宮道を北に向かう。三条通に出る手前を東に入り、京都市立白川小学校を過ぎると三条通から続く粟田神社の参道に出会う。
主座 素戔嗚尊、大己貴命(大国主命の若い頃の名前)
左座 八大王子命
右座 奇稲田媛命、神大市比賣命、佐須良比賣命
旧社名は、感神院新宮、粟田天王宮と称されていたが、明治になり粟田神社と改称された。

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粟田神社 鳥居の先にある狛犬 この先参道は2段続く
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粟田神社 鍛治社 駒獅子の左手前にある
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粟田神社 鍛治社 社の右側にある石碑

 粟田神社の公式HPに掲載されている創建由緒では、2つの説が併記されている。 貞観18年(876)の春、「この年隣境に兵災ありて、秋には疫病多いに民を悩ます」と神祇官並びに陰陽寮より清和天皇(嘉祥3年(850)~元慶4年(881))に奏上された。直ちに勅命が発せられ、全国の諸神に御供えをして国家と民の安全が祈願された。
 その中で出羽守藤原興世は勅使として感神院祇園社(現在の八坂神社)に七日七晩丹精を込めて祈願した。その満願の夜、興世の枕元に一人の老翁が立ち、「汝すぐ天皇に伝えよ。叡慮を痛められること天に通じたる。我を祀れば、必ず国家と民は安全なり。」と告げられた。興世が「このように云われる神は、如何なる神ですか?」と尋ねられると、老翁は「我は大己貴神なり。祇園の東北に清き処あり。其の地は昔、牛頭天王に縁ある地である。其処に我を祀れ。」と言われて消えた。興世は神意を得たとして朝廷に奏上すると、勅命によりこの地に社を建てて御神霊をお祀りすることとなった。

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粟田神社 一段目の参道の上
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粟田神社 境内の舞殿
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粟田神社 社務所横には能舞台

 牛頭天王はインドの釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神ともされ祇園神とも呼ばれ、日本では素戔嗚尊に習合している。疫病の神であることから、有名な蘇民将来の説話と混淆し、武塔神と同一視されている。祇園祭の粽には蘇民将来之子孫也と書かれた札が着けられている。疫病が流行した際に茅の輪を門に架けた蘇民将来の子孫は難を逃れることができたという説話に基づいている。

 もう一つの創建由来の説は、粟田氏が此の地を治めていた時に氏神として創建したというものである。古事記では、第5代孝昭天皇(懿徳天皇5年(紀元前506)~孝昭天皇83年(紀元前393))の皇子・天足彦国押人命は阿那臣・壱比韋臣・大坂臣・大宅臣・小野臣・柿本臣・春日臣・粟田臣・多紀臣・羽栗臣・知多臣・牟邪臣・都怒山臣・伊勢飯高君・壱師君・近淡海国造の祖とされている。
 昭和9年(1934)北白川大堂で行われたと地区区画整理工事の際に、古代寺院の伽藍跡が発見される。出土した瓦から白鳳時代(7世紀後半)創建の寺院と考えられ、北白川廃寺と名づけられた。この北白川から南禅寺あたりまでが愛宕郡粟田郷であったことから、大化改新から奈良時代にかけて活躍した粟田氏の氏寺,粟田寺であったと考えられている。

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粟田神社 本殿
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粟田神社 本殿

 その後、天台座主東陽坊忠尋大僧正が永久年間(1113~1117)に再建するものの、応仁の乱(応仁元年(1467)~文明9年(1477))で焼失し、明応9年(1500)に卜部家の系譜をひく神道家で吉田家を興した吉田兼倶が再興する。

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粟田神社 北向稲荷社
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粟田神社 太郎兵衛社
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粟田神社 吉兵衛明神

 本殿と幣殿は、文化2年(1805)6月に焼失後、文政6年(1823)に再建されている。建物は、三間社流造の本殿の前に桁行二間・梁行三間で正面に方一間の拝所を付設した幣殿が接続する複合社殿である。拝所の彫刻装飾には時代的特色がみられ、また流造の屋根の前に入母屋造・妻入、さらにその正面に向唐破風造の屋根を続けて変化に富んだ外観となっている。拝殿は、元禄16年(1703)に建てられたと伝えられ、本殿・幣殿より建築年代は遡るものと考えられている。

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粟田神社 左 朝日天満宮と多賀神社 右 大神宮社
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粟田神社 出生恵美須神社

 粟田神社の境内には、名匠・三条宗近、粟田口吉光の旧跡にちなんだ鍛治社がある。
 三条宗近は、一条天皇の永延(987~989)の頃の刀匠で、国風文化が確立し、摂関貴族・武士階級が出現した時代に、鎬造・湾刀の日本刀の様式を確立した代表的名工の一人としてとして知られている。一条天皇の宝刀・小狐丸を鍛えた逸話が謡曲・小鍛治として遺されているが確証はなく、伝説として扱われている。現存する有銘の作刀は極めて少なく、徳川将軍家伝来の、国宝 三日月宗近が代表作。なお三条通を挟んだ北側の民家の露地奥に合槌稲荷明神の祠がある。三条宗近はこの稲荷明神の神霊を得て名刀小狐丸を打ったと伝えられており、今でも能や歌舞伎などの上演の際には関係者が合槌稲荷に参拝するという。

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粟田神社 参道に建つ粟田焼発祥之地の碑
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粟田神社 三条通から見た参道

 粟田口吉光は鎌倉時代中期(13世紀頃)の刀匠で、国頼を祖とする京都の粟田口派を代表する刀匠。吉光は国友を長兄とする6兄弟の5番目の有国の子である国吉に師事したと言われている。本阿弥光忠によって編録された享保名物帖では、吉光を正宗、郷義弘と共に三作として扱い名物168口のうち吉光の作を34口あげている。しかし織田信長、豊臣秀吉などの権力者の元に蒐集され、本能寺の変、大阪夏の陣で焼身になったものも多い。代表作に国宝に指定されている名物後藤藤四郎や名物平野藤四郎などの短刀がある。

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粟田神社 境内から平安神宮方向の眺め

「粟田神社」 の地図





粟田神社 のMarker List

No.名称緯度経度
 粟田神社 35.0082135.7853
01  合槌稲荷神社 35.0097135.7841

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