島原の町並み その2
島原の町並み(しまばらのまちなみ)その2 2008年05月18日訪問
かつての置屋建築を偲ばせる輪違屋と島原に残されている文芸碑に従って、町並みを見ていく。
■01 輪違屋
輪違屋は、現在も営業している置屋兼お茶屋である。元禄元年(1688)置屋として始まっている。創業当時は養花楼という名称であった。現在の建物は安政4年(1857)に再建されたものであるが、明治4年(1871)に現在の姿となっている。そして明治5年(1872)よりお茶屋を兼業している。かつては芸妓等も抱えていたが 現在は太夫のみを抱え、太夫の教育の場と宴席の場となっている。建物は昭和59年(1984)に京都市の指定・登録文化財となっているが、一見さんおことわりということで中の様子は伺うことが出来ない。 太夫道中に使われる傘を襖に貼り込んだ傘の間や、本物の紅葉を使って型取りしたうえに彩色した壁が使われた紅葉の間があるらしい。
浅田次郎の小説「輪違屋糸里」で有名になっているが、フィクションの部分もかなりあるので、そのまま歴史の事実として受け入れることはできない。
■02 島原大門
掘と塀で囲まれた島原は、当初は東北角の大門のみであったが、享保17年(1732)に西に大門が作られている。その後東北角の、大門は、明和3年(1766)に島原の中央を東西に走る道筋と呼ばれる道の東端に付け替えられている。これが現在の地である。
大門の形状は時代によって変遷している。当初の門については詳らかでないが、享保14年(1729)には、冠木門であったと考えられている。その後、塀重門、腕木門となり、嘉永7年(1854)に起きた大火で焼失している。その後、簡易な冠木門で再建されているが、慶応3年(1867)には、神社仏閣なみの本格的な高麗門として立て替えられ、現在に伝わる。前には「出口の柳」が植えられ、「さらば垣」がめぐらされている。昭和61年(1986)に京都市登録有形文化財に登録されている。
■03 島原歌舞練場
島原の歌舞練場は、明治6年(1873)上之町に島原女紅場として開設されている。ここでは青柳踊や温習会が上演されていたが、芸娼妓に刺繍・裁縫などを教え,遊里を離れても仕事ができることに女紅場の目的があった。明治14年(1881)頃には衰退し、青柳踊等も頓挫した。その後、京都の景気も回復し太夫道中が再興されると、歌舞練場がその巡行の拠点となった。
この歌舞練場は狭い上、貸座敷組合事務所との共用であったため、昭和2年(1927)に中之町の現在地に、本格的な劇場施設として新築されている。それ以来、この新歌舞練場は、養柳会が運営にあたり、歌舞音曲の練習発表の場として毎年温習会が開催されてきた。戦後の昭和22年(1947)以降は島原貸席お茶屋業組合の事務所としても使用されてきたが、平成8年(1996)に同組合の解散に伴い、歌舞練場は解体され、120余年の歴史を閉じることとなった。
この地には稲荷社が鎮座していたことが、天保年間の島原鳥瞰図から分かる。傍らに植えられている大榎の根元には、歌舞練場解体時まで祠が祀られていた。樹高15メートル、幹周も2メートルと神木としての威厳を今も保っている。歌舞練場と古木の由来を記した記念碑が建立されている。
■04 大銀杏
島原住吉神社の旧境内地北端に大銀杏が植わっていた。明治維新後の廃仏毀釈により、社格株のない住吉神社が廃社になるが、大銀杏は神木として遺される。明治36年(1903)神社は再興されたが、その境内はこの神木の植わった地までは至らなかった。昭和5年(1930)にこの樹の根元に弁財天が祀られることにより、再び神木としなる。樹高20メートル、幹周り3.5メートルの島原一の巨木である。
■05 島原西門
島原大門で触れたように、島原の入口は東の大門のみであったが、享保17年(1732)に西側中央部に西門が設けられる。当初の門は両側に門柱を立てただけの簡略なものであったと考えられている。天保13年(1842)に現在の島原住吉稲荷神社前に移され高麗門型となる。しかし昭和52年(1977)交通事故により全壊する。3年後に門柱のみが復元されたが、平成10年(1998)に再度の事故により倒壊する。現在は島原西門の由来と往時の姿を刻した石碑が建つ。
■06 島原住吉神社
島原住吉神社は、島原中堂寺町の住吉屋太兵衛の自宅で祀っていた住吉大明神が始まりとなっている。霊験あらたかで良縁の御利益があることから多くの参詣者が集まり、享保17年(1732)島原の西北に遷座し建立されている。その社地は、北は島原の北端から南は島原中央の東西道である道筋にまで及ぶ。島原の鎮守の神として崇められ、例祭とともに太夫・芸妓等の仮装行列である「練りもの」が盛大に行われていた。上記のように明治維新後に起きた廃仏毀釈により廃社となり、歌舞練場内に祀られる。
明治36年(1903)船井郡本梅村から無格稲荷社の社株を譲り受け再興されるが、住吉神社の社名は認められず稲荷神社とされてきた。平成11年(1999)社殿、拝殿を改修のうえ、社務所も新築し、境内の整備が行われ。同13年(2002)に社名を島原住吉神社と改称する。
■07 幸天満宮
島原住吉神社の境内社である幸天満宮は、当初揚屋町の会所に天神の祠が始まる。享保19年(1734)現在の地に遷座する。延享5年(1748)より筑紫太宰府天満宮にならい、鷽替の神事が営まれるようになる。色紙、短冊などを持ち集まり、「鷽を替えん」と言い取り交わすもので、諸客の見物で賑わったが、明治以降は完全に廃れてしまっている。
■08 東鴻臚館跡
現在の千本通は平安時代の京を南北に貫く朱雀大路であり、その東西に外国使節を接待するための施設としてふたつの鴻臚館が設けられていた。弘仁年間(810~24)東西市の設置に伴い、鴻臚館は七条北に移転し、この島原付近には東鴻臚館が建てられた。この館では渤海国の賓客をもてなし、詩会などが行われた。渤海国が延長4年(926)に滅亡すると鴻臚館も衰微し、鎌倉時代の頃に消失したと考えられている。また一説には延喜20年(920)の頃には既に廃止されたとされている。現在、角屋の北側に東鴻臚館址の石碑が建つ。
最後に角屋に関わる石碑
■09 長州藩士久坂玄瑞の密議の角屋
長州藩士の久坂玄瑞は天保11年(1840)萩藩医・久坂良迪の三男秀三郎として生まれる。安政3年(1856)九州への遊学の際、宮部鼎蔵より吉田松陰に従学することを強く勧められる。松下村塾では高杉晋作と共に松下村塾の双璧、高杉晋作、吉田稔麿、入江九一と共に松門の四天王といわれる。松陰は久坂を長州第一の俊才であるとし、安政4年(1857)松陰は自分の妹文を久坂に嫁がせている。
文久3年(1863)1月27日、京の翠紅館において各藩の攘夷派と会合を行っている。同年4月からは京都藩邸御用掛として攘夷祈願の行幸を画策する。その後一時帰藩し、首領に中山忠光を迎え外国艦船砲撃事件に加わる。再度入京し、尊攘激派と大和行幸の計画などを画策する。 文久3年(1863)八月十八日の政変によって長州勢が朝廷より一掃された後も、京都詰の政務座役として、長州藩の失地回復を図る。三条実美、真木和泉、来島又兵衛らの武力を以って京都に進発し長州の無実を訴えるという進発論を、桂小五郎らと共に押し止めていた。元治元年(1864)6月4日進発令が発せられ、翌5日に池田屋事件が起こり、その知らせが長州に伝わると激発し、来島又兵衛や真木和泉らは、諸隊を率いて東上する。6月24日久坂は長州藩の罪の回復を願う嘆願書を起草し、朝廷に奉っている。7月17日、男山八幡の本営で長州藩最後の大会議が開かれ、同19日の禁門の変とつながっていく。
蛤御門に殺到した長州藩兵は、会津・桑名藩とそれを支援した薩摩藩の前に敗れ去る。木島又兵衛は戦死。久坂玄瑞は鷹司邸の裏門から邸内に入り、鷹司卿に朝廷への参内のお供を嘆願したが断られる。敵兵に囲まれ火の海となった鷹司邸で久坂は寺島忠三郎と共に自刃して果てる。
何故この地に久坂玄瑞の碑が建つのか?碑の文面の
角屋は玄瑞が屡々暗殺の難を避け潜行密議した場所である
とあるので、特に文久3年(1863)八月十八日の政変以降、元治元年(1864)7月19日の禁門の変までの1年間のことと思われる。久坂でなく他の維新の志士でも良かったようにも思える。やはり島原桔梗屋の芸妓であり、久坂との間に秀次郎を授かったとされる辰路との関係であるのだろうか。
「島原の町並み その2」 の地図
島原の町並み その2 のMarker List
No. | 名称 | 緯度 | 経度 |
---|---|---|---|
▼ 角屋 | 34.9922 | 135.7433 | |
▼ 輪違屋 | 34.9928 | 135.7445 | |
▼ 長州藩士久坂玄瑞の密議の角屋の碑 | 34.9922 | 135.7433 | |
02 | ▼ 島原大門 | 34.9925 | 135.745 |
03 | ▼ 歌舞練場跡 | 34.9933 | 135.7447 |
04 | 大銀杏 | 34.9936 | 135.743 |
05 | ▼ 島原西門 | 34.9933 | 135.7429 |
06 | ▼ 島原住吉神社 | 34.9933 | 135.7429 |
07 | ▼ 幸天満宮 | 34.9932 | 135.7428 |
08 | ▼ 東鴻臚館跡 | 34.9925 | 135.743 |
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