祇園の町並み その2
祇園の町並み(ぎおんのまちなみ) その2 2008年05月18日訪問
四条河原町から四条通を東に進む。近江屋 その3で触れた鳥新は、高瀬川の東詰めにあったと言われている。慶応3年(1867)11月15日の夜、坂本龍馬は近江屋から峯吉に軍鶏を買いに行かせている。おそらく往復で30分もかからない場所にあるこの店から戻ると既に事件は終わっていた。その先には東華菜館の装飾的な建物が現れ、四条大橋へとつながる。この一見4階建てに見える建物は、当時流行していたビアホールとして大正15年(1926)ヴォーリズによって設計されている。華やかなスパニッシュスタイルの外観やエントランス周りのテラコッタ・レリーフには帆立貝や巻貝、魚、蛸などの魚介類がちりばめられているのは、レストラン建築を意識したものだろう。やや奥に見える小さな塔が美しい。
鴨川の東橋詰には出雲の阿国の銅像が建つ。阿国の生涯は定かではないが、出雲国松江の鍛冶中村三右衛門の娘が出雲大社の巫女となり、文禄年間に出雲大社勧進のため諸国を巡回したところ評判となったとされている。そして阿国はこの四条河原でも勧進興行を行ったとされている。阿国一座が評判になるとこれを真似た芝居が遊女によって盛んに演じられるようになり、遊女歌舞伎となる。
京都観光旅行のあれこれでは、先の四条河原での興行は、阿国を騙った者による可能性を指摘している。偽者が大量に出現する程、戦国時代が終わり平和な江戸時代に入ると女歌舞伎が流行していったことが良く分かる。この女歌舞伎は、風紀を乱すとの理由から寛永6年 (1629) に禁止され、現在の歌舞伎の形式が完成していく。
この阿国の像の前にもビアガーデンを持つクラシカルな建物が建つ。レストラン菊水は昭和2年(1927)に竣工している。前面には南座が昭和4年(1929)に建てられていることから、先の東華菜館を含めて昭和初年にかなりこの地の風景が大きく変わったのであろう。どことなくオルブリッヒ設計のルートヴィヒ大公結婚記念塔(1908年)を思わせる塔を中心に据えた小振りな建物である。ウィーン分離派、アールデコ、表現主義そしてライト風と色々な手法をひとつの建物に盛り込んでいる。
この後、夜の祇園の街を撮影してホテルへ戻る。
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