文書と写真・地図による「記憶」の再現

近江屋跡 その3



近江屋跡(おうみやあと) その3 2008年05月18日訪問

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近江屋跡 坂本龍馬・中岡慎太郎遭難地の碑

 再び話しを坂本龍馬と近江屋に戻す。
 慶応3年(1867)11月15日を再現してみる。

 近江屋跡 その2で触れたように越前藩から帰京した龍馬は、河原町三条の酢屋へ戻る。材木業を営む酢屋は、角倉家より高瀬川の木材独占輸送権を得ていたことより、伏見・大坂への連絡や高瀬川沿いの各藩邸へ折衝の拠点とするには適していた。海援隊京都本部が酢屋に置かれたことで、陸奥宗光、長岡謙吉等数多くの土佐藩士が投宿している。その後、土佐藩邸と河原町通を挟んだ場所で醤油商を営む近江屋・井口新助邸へ移る。この時期龍馬は風邪をひき、床に伏せていたようで、11月15日も近江屋の2階奥座敷で火鉢で暖を取っていた。現在の河原町通は片側2車線の大通りであるが、これは京都市区改正設計によって大正末年から昭和初年にかけて拡幅が行われた結果である。この拡幅工事によって、河原町通の東側はほぼ変わらなかったが、近江屋のある西側はかなり削られている。そのため京都時代MAP 幕末・維新編(光村推古書院 2003年)では、近江屋の奥座敷は現在の河原町通お西側の歩道あたりではないかとしている。これは近江屋の敷地の西側には土蔵があり、主屋の位置が河原町通側に寄っていたとしているためである。人目を憚る龍馬は、この土蔵で寝起きをしていたが、この時は風邪を引いたため奥座敷に移り住んでいたと言われている。有事の際にはこの土蔵から隣地の稱名寺へと逃げ落ちることも可能であったようだ。ちなみに現在、坂本龍馬・中岡慎太郎遭難地の碑が建つ場所は、当時の近江屋の北隣りの敷地であるから、京阪交通社とパチンコ屋の間にあるアイプリモ京都本店の場所となる。この碑は昭和2年(1927)に京都市教育会が建立しているが、寄贈者の一人である井口新之助は近江屋事件の際の当主井口新助の子息である。近江屋の地に入っていた方が碑を建てることに難色を示したため、北隣りの敷地内の近江屋寄りに建立したと言われている。確かに殺害事件が起きた場所を示す碑を自分の店の前に置かれるのには抵抗を感じるだろう。この時期はまだ龍馬ということで商売が出来るとは考えもつかなかったのだろう。
 この時期、新選組から分離して御陵衛士を結成した伊東甲子太郎も坂本龍馬や中岡慎太郎に新選組や幕吏の追求が迫っていると警告していたが、中岡は兎も角として坂本は気にしていなかったのか、薩摩藩邸にも土佐藩邸にも入らず近江屋に居続けている。警告をしていた伊東も3日後の11月18日に新選組の手により木屋橋通あたりで暗殺されている。さらに翌日、七条油小路に置かれた伊東の亡骸を引き取りに来た御陵衛士を殺害する油小路の闘いへとつながっていく。

 11月15日、龍馬は近江屋の3軒南にあった造酒屋大和屋に土佐藩大監察福岡孝弟を午後3時と5時の二度にわたって訪問しているが、不在のため会えていない。一方、中岡慎太郎は白河の陸援隊屯所を出て、四条河原町の菊屋を訪れている。菊屋は土佐藩御用達の書店で、かつて中岡が住んでいた場所でもある。現在はあぶらとり紙専門店・象の河原町本店が入っている地には、中岡慎太郎寓居地の碑が建てられている。中岡は菊屋の子息峯吉に薩摩屋宛の手紙を託し、近江屋に返事を伝えるように頼む。土佐藩士谷干城の寓居を訪問するがこちらも不在であったため、龍馬のいる近江屋に向かう。 この日の中岡慎太郎は三条制札事件で捕縛された宮川助五郎の処遇について龍馬を訪ねたとされている。慶応元年(1865)に行われた第2次長州征伐が失敗に終わると、長州藩を朝敵とする内容の制札が引き抜かれる事件が頻発する。鴨川にかかる三条大橋の西詰に立てられた制札が3度に渡って引き抜かれたことから、慶応2年(1866)9月10日、新選組に制札の警護が命じられる。そして9月12日、三条大橋西詰の制札を引き抜こうとした土佐藩士8名を新選組が襲撃している。藤崎吉五郎が斬殺、安藤鎌次が土佐藩邸門前で切腹、深手を負った宮川助五郎は捕縛、それ以外の5名は逃走している。土佐藩と新選組との間では全面的な対立を避けるため、9月19日に土佐藩主催の酒宴が祇園で行われ一応の手打ちがなされている。しかし幕府からの横槍が入り、宮川の身柄は町奉行に渡され拘禁がなおも続く。ようやく慶応3年(1867)11月14日に幕府から宮川の身柄の引渡しの通告が土佐藩に出る。大監察福岡孝弟と中岡慎太郎の間で、宮川を中岡に一任するという事に取り決められる。龍馬が福岡を2度も訪問しているのはこれに関連した行動と思われる。

 この日、近江屋の龍馬に面会した人物は2人いる。時間は特定し得ないが文人志士・淡海槐堂(板倉筑前介)が掛け軸・寒椿と白梅図の「梅椿図」を持参している。この11月15日が龍馬の誕生日に当たるため、それにあわせた贈り物であろう。槐堂は、これを床の間に飾り、帰っていったとされている。この梅椿図は重要文化財に指定され京都国立博物館に所蔵されている。掛け軸の下部には横に飛ぶ散る血痕が残り、凄惨な場面の目撃者でもある。 今一人は土佐藩士・岡本健三郎で、龍馬、中岡と談笑しているところに薩摩屋で用事を済ませた菊屋峯吉が出会っている。これが午後7時頃とされている。

 午後9時近くになり、龍馬は峯吉に軍鶏を買いに行かす。岡本もこの時峯吉と共に近江屋を後にする。井口一家を除くと、近江屋には坂本龍馬と中岡慎太郎そして龍馬の従僕の山田藤吉がいた。藤吉は嘉永元年(1848)大津鹿関生まれの上方相撲の力士であった。相撲を廃業した後、料理屋の出前持ちなど経て龍馬の従僕となっている。元力士とってもまだ19歳の青年である。
 峯吉と岡本が近江屋を出てから程なくして、刺客が近江屋を訪れる。ここからはテレビでも映画でも有名な場面であるが、実際のところ推測もかなり入っているようだ。
 まず刺客達は玄関で取次ぎに現れた藤吉に、十津川郷士を名乗り面会を求める。龍馬に訪問客を取り次いで再び玄関に戻ってきた藤吉を刺客が背後より刺殺する。この時の争う騒ぎを聞きつけた龍馬は「ほたえな!」と怒鳴ったとされている。この声で刺客達に龍馬の居場所が分かり、奥座敷へ入っていく。
 刺客は龍馬に対して三太刀浴びせている。一の太刀は龍馬の前額部を横に払っている。この時に血飛沫が淡海槐堂の梅椿図に残されたのであろう。掛け軸の高さから推測すると座したままの状況で一の太刀を受けている。龍馬は床の間に置いた刀を取るため身を捻ったため、背中に二の太刀を受けている。右の肩先から左の背骨にかけて袈裟切りとなっている。そして刀を取った龍馬に抜く余裕を与えず、三の太刀が正面から襲う。この刺客の三の太刀を龍馬は鞘ごと受けたため、3寸程刀身を削り取られている。そしてその勢いで龍馬の前額部を深々と薙ぎ払った。これが龍馬の致命傷となった。
 中岡もまた太刀を身から離していたため、小太刀で応戦している。致命傷となった後頭部の斬撃以外にも身体に数十箇所の傷を負っている。先の藤吉も六太刀を受けていたとされている。
 階上の異変を察した井口新助は土佐藩邸に急を告げると、藩邸からは島田庄作が駆けつける。
 軍鶏を買いにいった峯吉が戻ったのは30分後位だと考えられている。高瀬川に架かる四条小橋の東南にあった鳥新に行ったとされていることからも、それ程時間もかからず近江屋に戻ってきたのだろう。まだ近江屋の中の状況が分からないで1階にいた島田に峯吉は出会う。この後、土佐藩邸から曽和慎八郎、谷干城、毛利恭助が相次いで駆けつける。2階に上がった峯吉は中岡の依頼を受け、白河の陸援隊本部へ事件を知らせる。居合わせた田中顕助は、途中薩摩藩邸に立ち寄り、吉井幸輔を伴って近江屋へ向かう。また香川敬三、本川安太郎も集まって来る。
 坂本龍馬は既に絶命し、藤吉は翌16日に死亡している。多くの傷を受けた中岡慎太郎は意識がしっかりしており、事件の状況を同志に伝えている。元見回組今井信郎が語った話しが明治33年(1900)近畿評論第17号に「今井信郎実歴談」として掲載されると世の中は騒然となる。いち早く近江屋に駆けつけた谷干城は、この掲載から6年経った明治39年(1906)東京九段の招魂社で「近畿評論を駁す」と題する演説を行っている。そこでは今井信郎の証言を否定する証拠として以下のようことをあげている。

     1 刺客は十津川郷士を名乗った
     2 龍馬と中岡は名札を行灯のもとで見ようと頭を出している時に襲われた
     3 1人は「こなくそ!」と叫んで切りかかってきた
     4 程なくして「もうよい もうよい」と言って立ち去った
     5 刺客が残した鞘を御陵衛士に検分させたところ新選組の原田左之助のものだという証言を得た

 どうも中岡慎太郎も直接犯人に結びつく証拠を見ていなかったようだ。少なくとも顔見知りの人物に襲われたことではないのであろう。その中岡慎太郎も11月17日に容態が急変し死亡している。

 谷千城が明治39年(1906)まで京都見廻組暗殺説を否定し、強く新選組の原田左之助犯人説を持ち続けていた。この暗殺から程ない慶応3年(1967)12月7日海援隊士と陸援隊士が京都油小路の旅籠天満屋で紀州藩士三浦休太郎を襲撃している。天満屋事件と称され、護衛に付いていた新選組と海援隊・陸援隊士の斬り合いになり、十津川郷士中井庄五郎が死亡、新選組も隊士2名が死亡している。いろは丸沈没事件の賠償金が近江屋事件に結びついたと考える土佐藩士達の疑念は、その後の戊辰戦争における新選組隊士に対する掃討に現れている。

 近江屋跡 その1から、その2まで坂本龍馬の大政奉還前後の行動を改めて見て分かることは、誰から狙われてもおかしくない点である。現在、京都見廻組説、新選組説、薩摩藩説、土佐藩説、イギリス陰謀説の他にも多くの説があるが、京都見廻組説で歴史学的には決着が付いているようだ。しかし鹿児島県出身者を除く多くの人が薩摩藩説を支持していることに驚かされる。この辺りはどういう所から生じているのだろうか?判官贔屓とも言えるその精神構造を知ることが、我々の時代から見た明治維新像を明らかにすることにつながるのかもしれない。

「近江屋跡 その3」 の地図


大きな地図



近江屋跡 その3 のMarker List

No. 名称 緯度 経度
 近江屋跡 35.0055 135.7691
 鳥新 35.0036 135.7706
  土佐藩邸01 35.0058 135.7693
  土佐藩邸02 35.0055 135.7698
  土佐藩邸03 35.0058 135.7704
  土佐藩邸04 35.0061 135.7698
01   大和屋(福岡孝弟寓居跡) 35.0053 135.769
02  菊屋 35.0045 135.7694
03  谷干城寓居跡 35.0042 135.7698
04  酢屋 35.0084 135.7699
06  土佐藩邸 35.0058 135.7699

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