鷺森神社
鷺森神社 (さぎもりじんじゃ) 2008年05月20日訪問
祇園新橋からなすありの径を歩き、東大路通に出る。そのまま北に上り、東山三条の交差点を東に曲がると地下鉄東山駅の入口が現れる。ここから東西線で烏丸御池に出て烏丸線に乗り換え、終点の国際会館に向かう。約40分で国際会館のバス停に到着する。京都駅前行きの市営バス5号で5駅目の修学院離宮道で下車する。まだ修学院離宮の集合時間まで間があるため、鷺森神社から林丘寺を経て向かうこととする。
修学院離宮道の停留所のある白川通から修学院離宮道に入り東に進む。音羽川を東に越え、南に折れると鷺森神社の長い参道の端が現れる。
鷺森神社は貞観年間(859~77)創建と伝えられている。祭神は素盞嗚尊で、社格は村社。摂社、末社に天照皇太神宮、熊野皇太神、住吉大明神、八幡太神そして豊稲荷神社がある。
比叡山麓七里である一乗寺、薮里、豊楽寺、修学寺、山端、高野そして大原の産土神の一柱で修学寺ノ天王とも称され、もとは牛頭天王を祀っていたとされている。神使である鷺がこの森に群集していたことから鷺森と名付いた。
最初は比叡山麓、赤山明神の付近に祀られていたが応仁の乱の兵火で焼失し、修学院離宮の山林中に移されている。「霊元院法皇御幸宸記」によると霊元天皇(識仁親王)が後水尾法皇と修学院離宮に行幸したのは寛文2年(1662)のことだった。その際に鷺森神社への御参拝も行われたと考えられている。その後、鷺森神社は霊元天皇より現在の鷺の杜に社地を賜り、元禄2年(1689)に遷座している。霊元天皇は後水尾天皇の第19皇子にあたり、後西天皇の後を継ぎ寛文3年(1663)に即位している。なお後水尾法皇は延宝8年(1680)に崩御しているので、鷺森神社の遷座はその後の話しである。
享保6年(1721)霊元院は約60年ぶりに修学院離宮への行幸が行われている。ここから享保16年(1731)までの10年間に21回の行幸を果たしている。享保9年(1724)の行幸では次のような歌を詠んでいる。
「をりゐるも所からなるさぎのもり問はでもおのが名のるはかりに」
又、享保14年(1729)の行幸の際にも次の御製が残されている。
「をりゐるをみし鷺の森すきかてにわけきてけふはむかふ神垣」
境内にはこの一首を刻んだ文学博士・吉沢義則執筆の記念碑が残されている。本殿、拝殿と手水舎は安永4年(1775)、回廊は昭和42年(1967)の造営。南側の境内入口には、修学院離宮の正面入口にあった御幸橋が設けられている。
天明7年(1787)に刊行された拾遺都名所図会では鷺森を次のように記している。
「曼珠院の西にあり、平林にして中に社あり。祭神鬚咫天王。修学寺村生土神とす。例祭は三月五日なり、競馬あり」
また掲載されている図会には、南面する本殿・拝殿が描かれ、参道が南に延びていくように見える。また現在、御幸橋が架けられている場所に反橋が見えるのが興味深い。 槇野修著の「京都の寺社505を歩く(上)」(PHP新書 2007年)でも、同じように拾遺都名所図会を参照して南側に続く参道の存在について書いている。なおこの書では、御幸橋は昭和42年(1967)の本殿改修の際に下賜されたしている。
鷺森神社は、比叡山へ登る雲母坂の道筋にあたり、愚管抄を記した慈円は「比叡の山は 冬こそいとど 寂しけれ 雪の色なる 鷺の杜より」と詠んでいる。「太平記」には、「去程に、官軍宵より西坂を下りて、八瀬・藪里・鷺森・降松に陣を取る。諸大将は皆一手に成りて、二条河原へ押寄て」とあり、「東北歴覧之記」でも多賀豊後守高忠が如意ヶ嶽に出陣した際、鷺森が封鎖されたとある。このように鷺森神社のある地は、比叡山と洛中を結ぶ要所となっている。
5月5日には、さんよれ祭が鷺森神社で行われる。少年達が着物姿に紅たすき、菅笠姿で手には扇子を持ち「さんよれ、さんよれ」のかけ声で鉦、太鼓で神輿とともにねり歩く。赤山禅院を出発し、氏子町を経由して鷺森神社に着く。
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