林丘寺
臨済宗天龍寺派単立 聖明山 林丘寺 (りんきゅうじ) 2008年05月20日訪問
鷺森神社の本殿西側を見ながら北に進むと境内から出て住宅地に入り込む。そのまま道伝いに北に進むと音羽川に行き当たる。対岸にはフェンスで仕切られた修学院離宮の敷地が広がる。
丁度、修学院離宮の中御茶屋のあるあたりに、音羽川に面して門が建てられている。訪問した時間帯には門は閉ざされたままで、その前には作業用の自動車が止まり、人が歩いているのが確認できた。遠くから眺めているため、それ以上のことは分らなかった。どうもこちらが見ていることに気がついていたようで、足を止めてこちらの様子を伺っているようにも感じられた。
橋を渡っても、その門に近づくことが出来ない構造となっている。また対岸のフェンスの上に網が張られているようで、覗き込まれることも拒絶しているように思われる。この門は明治18年(1885)楽只軒と客殿を含む林丘寺境内の約半分が宮内省に返還されまでは林丘寺の持ち物であった。現在の中御茶屋の構成を考えると、宮内庁の管轄にいるのかもしれない。修学院離宮の中御茶屋の改修工事が行われていたことが、この後の見学で知った。
林丘寺は臨済宗天龍寺派に属する門跡尼院で、現在は単立寺院となっている。山号は聖明山。修学院離宮の中御茶屋に隣接する非公開寺院である。
後水尾上皇は寛文8年(1668)頃、朱宮光子内親王のために楽只軒を山荘として建てている。この地にもともとあった円照寺は移転している。
朱宮光子内親王は寛永11年(1634)後水尾上皇の第8皇女として生まれている。母は東福門院ではなく、女官櫛笥隆子であるため、内親王宣下を受けることもなく比丘尼御所で生涯を終えるはずであった。しかし寛永15年(1638)後水尾法皇の中宮であり、第2代将軍・徳川秀忠の娘である東福門院の養女となり、内親王宣下を受けている。
後水尾天皇には女官たちとの間に生まれた皇子女が多くあったが、東福門院との関係は良好であったとされている。その中でも特に常子内親王とともに父帝より特別に寵愛されたのは、幼い頃から聡明であったからであろう。後水尾天皇が黄檗宗の庇護に努めたこともあり、内親王も幼少の頃より仏教への親和を深めていた。寛文5年(1665)には黄檗宗の龍渓性潜により菩薩式を受け、道号照山、法諱元瑶の号を受けている。
延宝8年(1680)後水尾法皇が没すると、遺言により内親王は知行300石が与えられている。その2ヵ月後に大覚寺に入寺し、天龍寺の僧天外のもとで剃髪し、嵯峨一灯庵に幽棲している。照山元瑶が修学院村に林丘寺を建立し開基となったのは、後水尾法皇の死去から2年経った天和2年(1682)のことであった。林丘寺の方丈は楽只軒、客殿は延宝6年(1678年)に亡くなった東福門院が使用していた奥御対面所と御茶の間が移築されている。また書院も東福門院の便殿を使用している。
宝永4年(1707)異母弟霊元天皇の皇女亀宮(後の元秀女王)が林丘寺に入ると、照山元瑶は普門院と号し隠居している。享保12年(1727)光子内親王はは94歳の高齢で亡くなっている。実に内親王は6代の天皇の御世を生きたこととなる。なお照山元瑶と元秀女王の墓は、現在の林丘寺の境内ではなく曼殊院の南に位置する林丘寺宮墓地内にある。今回は訪れることが出来なかったが、陵墓要覧として、皇室陵墓参拝の記録を纏めたサイトに林丘寺宮墓地が掲載されているのでご参照ください。
その後も皇族の皇女・王女が入寺して尼門跡となるが、江戸時代後期には無住が続き、幕末には荒廃している。明治17年(1884)には、方丈の楽只軒とともに東福門院の便殿を賜わった書院を修学院離宮の中御茶屋として返還している。そして明治17年(1884)には、天龍寺派管長で、禅宗三派(臨済宗・曹洞宗・黄檗宗)の管長に選任せれている滴水宜牧が、林丘寺の住職も兼ねている。
元治元年(1864)蛤御門の変の際、長州藩兵の宿舎となった天龍寺は、薩摩藩によって焼き討ちに遭う。滴水宜牧は天龍寺西堂に任命され、義堂に代わって叢林を指導する立場にあり、身を以って天龍寺を守ろうとしたが、それも叶わず、祖堂に入って夢窓国師の霊像を背負って山林の中に避難したとされている。以後、明治4年(1871)天龍寺派管長、明治5年(1872)大教正となり、後半生を天龍寺伽藍再建に費やしている。そして明治32年(1899)に林丘寺住職を辞し、天龍寺再建に専念するも、林丘寺雲母庵に没している。
林丘寺の本堂には鎌倉時代の聖観音菩薩立像を安置し、開山堂には元瑤尼の像を祀っている。
京都観光Naviによると、窺い知れない内部の様子は以下のようになっているらしい。
「庭内には桧垣塔という美しい三重塔婆がある。望嵐亭からは洛内外を一眸のもとにおさめ、殊に花時の嵐山を遠望するのによかったというが、いまは樹木と堂宇にさえぎられて、もとの展望を失った。」
先の京都観光Naviに掲載されている林丘寺の表総門まで行こうとしたが、その道筋が分らなかった。おそらく禅華院の前の道を東に進むのだろうが、ここは宮内庁の管轄内ではないのだろうか?
なお、以下のように皇女や貴族の息女が住職となる尼門跡は比丘尼御所や尼門跡とも呼ばれている。
大聖寺(臨済宗) 御寺御所
宝鏡寺(臨済宗) 百々御所
曇華院(臨済宗) 竹御所
光照院(四宗兼学) 常盤御所
霊鑑寺(臨済宗) 谷御殿
円照寺(臨済宗) 山村御所
林丘寺(臨済宗) 音羽御所
中宮寺(法相律宗) 斑鳩御殿
慈受院(臨済宗) 薄雲御所
三時知恩寺(浄土宗) 入江御所
法華寺(律宗) 氷室御所
瑞龍寺(日蓮宗) 村雲御所
慈受院(臨済宗) 薄雲御所
宝慈院(臨済宗) 千代御所
本光院(天台宗) 蔵人御所
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