曼殊院門跡
天台宗 曼殊院門跡 (まんしゅいんもんぜき) 2008年05月20日訪問
音羽川を挟んで、林丘寺の対岸の道を東に進むと、畑の中に歴史的風土特別保存地区を示す碑が建つ。そのまま坂を登っていくと、関西セミナーハウスとの表示がある。ここを右に折れると、曼殊院天満宮の池泉と曼殊院門跡の間に出る。本来の曼殊院道はさらに一本南を通り、鷺森神社の南側の道となる。
曼殊院の歴史は、延暦年間(728~806)まで遡る。宗祖最澄(伝教大師)は鎮護国家の道場を比叡山に創建している。その後、天暦年間(947~957)是算国師の時、比叡山西塔北渓に移り東尾坊と号するようになる。国師は菅原家の出身であったことから、菅原道真を祀る北野天満宮の別当職に補される。北野天満宮の造営は天暦元年(947年)のこととされているが、国師が別当職に任命されたのは寛弘元年(1004)で、天徳3年(959)の右大臣藤原師輔による殿舎整備後のことであると考えられている。これ以来別当職は師資相承し、後に曼殊院門跡と称せられ、明治維新まで社務も総轄することとなる。天仁年間(1108~10)第46世天台座主で曼殊院8世門主の忠尋大僧正(治暦元年(1065)~保延4年(1138))は、北野天満宮別当としての事務管理の必要から比叡山を下り、現在の金閣寺あたりに別院を建立し、曼殊院と改名している。曼殊院の名の謂れは曼珠沙華から来ていると書くものもあるが、その由来は明らかではないようだ。槇野修著の「京都の寺社505を歩く(上)」(PHP新書 2007年)でも、寺名は不詳とした上で、
「曼はながながと跡をひく意、殊は普通とはまったく違うという意から、永遠な寺運をその名に託したのかもしれない。」
としている。おそらくこれに近いものだったと思われる。
室町時代に入り天神信仰が盛んになると、第3代将軍足利義満も曼殊院別院を軽視することが出来なくなり、康暦年間(1379~1381)の頃、花の御所の側である現在の同志社大学辺りに迎えている。この時期には既に比叡山にある本院より別院の方が重要な位置を占めるようになっている。明応4年(1495)伏見貞常親王の息二品慈運大僧正が入室し、26世門主となる。これ以降曼殊院は代々皇族が門主を務めることが慣例となり、宮門跡としての地位が確立し、竹内門跡と称するようになる。
曼殊院別院が、現在の一乗寺に移転したのは、明暦2年(1656)のことであった。
天正13年(1585)二条昭実と近衛信輔の間で、関白相論と呼ばれる関白の地位を巡るいざこざが発生する。この争いに乗じて豊臣秀吉は関白宣下を受けている。その上で、実子の不在を理由に新たに即位した後陽成天皇の弟六宮胡佐丸を猶子とすることを天正16年(1588年)の聚楽第行幸の際に奏上している。将来的に正式な豊臣氏の養子として関白を譲る予定であったが、天正17年(1589)秀吉の側室淀殿が男子・鶴松を生んだ事で、六宮胡佐丸の猶子は解消となる。同年、八条宮家が創設され、六宮は親王宣下を受け智仁親王を名乗ることになる。天正19年(1591)鶴松が3歳で大阪城で病死したため、関白職は秀吉から秀次に受継がれる。秀吉は藤原氏として就任はしているが、実質的には関白の歴史の中で藤原氏以外の者が就任した事例として残る。
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いの後、後陽成天皇は皇位継承者としていた実子の良仁親王を廃し、実弟の智仁親王に皇位を譲ることを考え始める。しかし徳川家康の反対に遭い、慶長16年(1611)良仁親王の弟の政仁親王が皇位を継ぐこととなる。これが後水尾天皇の即位である。智仁親王が家康に忌避されたのは秀吉の猶子であったからとされているが、この判断が後々、家康から家綱までの将軍達を苦しめるものとなる。
八条宮智仁親王は、家領の下桂村に別業を造営している。後の桂離宮に発展していくが、その着手は秀吉が猶子として迎えた時に莫大な御料によっていることから、かなり早い時期だったと思われる。離宮内で最も古い建築物とされている古書院の建設年代は1615年頃と推定されていることから、後水之尾天皇が即位し智仁親王に皇位継承の可能性が無くなってからの建設となる。造営は子供の智忠親王に引き継がれ、数十年間をかけて整備されていく。
再び話しを曼殊院に戻す。良尚親王が明暦2年(1656)に第28世門主となると、曼殊院を現在の地に移し新たに堂宇を造営している。
良尚親王は元和8年(1623)八条宮智仁親王の次男として生まれている。寛永4年(1627)曼殊院に入室、寛永9年(1632)後水尾上皇の猶子となる。寛永11年(1634)親王宣下を受けて、曼殊院で得度し、正保3年(1646)第175世天台座主に任じられている。
良尚親王が曼殊院を現在の地に移した明暦2年(1656)は、後水尾上皇が修学院離宮の造営に着手した年でもある。同じ年に義理の父子が洛北の地に離宮と門跡寺院の建設を始めたことになる。また兄は八条宮智仁親王の遺志を継いで桂離宮を整備したのに対して、弟の良尚親王は、桂や修学院離宮に比べると非常に控え目ではあるが、華やかで洗練された寺院を建設している。
良尚親王と後水尾上皇あるいは智仁親王、智忠親王の親子との関係は、歴史上のつながりだけでない事が、修学院離宮の後に曼殊院を訪れると良く理解できる。この2つの建物は、桃山時代の持つ華やかさを江戸時代に受継いだ点で共通しているだけでなく、簡単な言葉で表すと作り手の「趣味の良さ」に共通点を感じさせる。特に曼殊院は国家的財力を投入して造営したのでなく、作り手のセンスで勝負している点、潔さと共に、ほっとする安堵感を受ける。
建築家ブルーノ・タウトが1936年日本を去り、トルコのイスタンブルに移住する際、曼殊院を訪れたとされている。桂離宮を愛した著名な建築家であり思想家が、日本に別れを告げるために訪れた場所が、ここであったということは、私が感じた安堵感に何かつながりがあるのだろうか?
山を背にした傾斜地に平地を造成し建立したため、曼殊院道から登っていくと大きな石垣と五本線の築地塀が最初に目に入ってくる。石垣の手前には樹齢を重ねた大木が植えられているため、この時期は緑陰も濃く門跡寺院らしい柔らかな感じを与える。天台宗山門派の門跡寺院(天台三門跡)としては、青蓮院、三千院そして妙法院などがあるが、曼殊院もこれらに次ぐ格式の高い寺院である。
この曼殊院の石垣と築地塀の手前、すなわちその西側の木立が密集した場所に、曼殊院天満宮とその苑池がある。前述のように、是算国師が菅原氏の出身で、北野天満宮の別当職に就いていた関係で、菅原道真を祭神とした天満宮が曼殊院の中にあっても不思議ではない。天明7年(1787)に刊行された拾遺都名所図会には、曼殊院の記述とともに、天満宮についても下記のように記している。
天満宮
〔当院後山にあり、祭神菅公、洛陽の菅大臣は此御門主兼帯所なり。当山絶景にして奇観の地なり〕
この記述の通り、図会には、曼殊院の東の高台に天満宮が描かれ、現在の地は樹木が植えられていたことが見てとれる。廻游日記に掲載されている曼殊院天満宮(http://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/kyotosyui/page7/km_01_422.html : リンク先が無くなりました )には、
「萬治3年、裏山天満宮を遷座し、弁天堂とともに鎮守堂とした。」
としているが、万治3年(1660)とすると明暦2年(1656)の建立直後のこととなるので、先の拾遺都名所図会と整合性が取れない。拾遺都名所図会を信じるならば、天明7年(1787)以降のことと思われる。天満宮は、弁天堂とともに中島に祀られている。南側の石の鳥居を潜り、細い石橋を渡った正面には弁天堂が建てられている。この石橋は小さいながらデザイン的に非常に優れている。天満宮はこの弁天堂の東側に祀られている。良く調べずに出掛けたため、弁天堂を天満宮と思い違えていたことに気がついたのは、これを書いている時であった。弁天堂のある弁天島とその周りに広がる弁天池は樹木に囲まれ、静かな空間を作り出している。弁天堂の西側には宝形屋根の弁天茶屋→2013/1/4 閉店(http://ggyao.usen.com/0001047139/ : リンク先が無くなりました )が営業している。確かに景観も良い地であるが、弁天堂と比較しても大きすぎる建物となっているのは、主客転倒と言わざるを得ない。これでは弁天茶屋島となっている。
石垣が巡らされた曼殊院の寺域の西面に巨大な石段が築かれ、勅使門が建てられている。かなり武張った構えの門で、門跡寺院の格式を表しているのかもしれないが、その中の空間との違いが大きいように思う。勅使門であるため、ここより入ることは出来ない。拝見の入口は、さらに坂を登った先にある。
北通用門から入ると重要文化財に指定されている庫裡が現れる。良尚法親王の筆による媚竈の額が架かる。媚竈は論語 八佾第三の13にある下記の言葉からきている。
「王孫賈問曰。與其媚於奧。寧媚於竈。何謂也。」
衛の大夫王孫賈が、「奥の神様に媚びるより、竈の神様に媚びよ」という諺があるが、どのような意味であるかと孔子に問うている。これに対して
「子曰。不然。獲罪於天。無所禱也。」
と答えている。孔子は諺の間違いを指摘し、どの神様に対してもご機嫌を取る必要などないとしている。道に外れたことをすれば天罰を受けるため、どの神様に祈ったところで無意味であるとしている。王孫賈は諺にかけて、君主に媚びるよりは、実権のある陪臣に媚びよということを尋ねている。
権力者に媚びず竈で働く人々に感謝すると説明されることが多いようだが、論語の内容とは少し離れたものとなっている。権力者を徳川家康に見立てることもできるが、庫裡の入口に論語の言葉を掲げるセンスを理解するに留める。
曼殊院の建物構成は複雑で、図面を持たずに拝観するとどこを歩いているか分かりづらい。庫裡の南には大玄関が造られている。この建物は勅使門を潜って訪れた客を迎えるためのものと思われる。虎の間、竹の間、孔雀の間はそれぞれ襖絵や壁紙の絵によって名付けられている。
この記事へのコメントはありません。