上七軒の町並み
上七軒の町並み (かみしちけんのまちなみ) 2008年05月19日訪問
平野神社の東大鳥居から境内を出て、南門を見ながら再び西大路通に出る。衣笠校前から市バス50号に乗車し上七軒に戻る。後から考えると平野神社の東大鳥居から北野天満宮の北を歩き上七軒の北側に出てもよかった。
現在、上七軒は祇園甲部、祇園東、島原、先斗町、宮川町とともに京都の六花街、あるいは茶屋の営業が絶えた島原を除き、京都花街組合連合会に加盟する5地区の総称して使われる五花街と呼ばれている。
祇園甲部は京都最大の花街であり、日本だけではなく海外にも良く知られ花街となっている。その始まりは江戸時代初期に八坂神社の門前で水茶屋を営業したこととされ、花街として発展し正式に許可されている。また四条花見小路上る東側に位置する祇園東は、明治に入ってから祇園甲部から分離独立した街である。 島原の項で既に述べたように、日本の公娼地の始まりは、第3代将軍・足利義満が現在の東洞院通七条下ルに許可した傾城町とされている。天正17年(1589)原三郎左衛門らが豊臣秀吉の許可を得て、柳馬場二条に島原の元となる柳町を開いている。このように島原の起源は古いが、慶長7年(1602)柳馬場二条から六条付近に移され、寛永18年(1641)現在の朱雀野付近への移転が命ぜられているので、この地での歴史は寛永18年(1641)からとなる。
鴨川と木屋町通の間にある先斗町は、江戸時代初期に護岸工事で埋立てられている。鴨川の周辺を開発しそこに茶屋、旅籠などが置かれたのが始まりで、すでに芸妓、娼妓が居住するようになるが、何度も取締りが行われる。そのうち川端二条にあった二条新地の出稼ぎ地として認められる。正式に先斗町として独立するのは明治初期のことであった。 宮川筋二丁目から六丁目までを宮川町と言う。出雲阿国の歌舞伎踊りの時代から始まり、最初は若衆歌舞伎の小屋と茶屋が立ち並び10代の少年が接待をしていた。その後形態が変わり宝暦年間(1751~1763)に正式に認可されている。
上七軒は上京区真盛町から社家長屋町に広がる花街。文安元年(1444)北野天満宮の社殿が一部焼失し、第10代足利義植は所司代細川勝元に命じ社殿の造営をさせている。この社殿御修築の残材を使用して、東門前の松原に七軒の茶店を建て参詣諸人の休憩所とした。これが上七軒の名前の由来である。その後、天正15年(1587)豊臣秀吉が北野で大茶会を開いた折に、七軒茶屋は秀吉の休憩所となっている。この時、名物の御手洗団子を謙譲したところ、大いに誉められ、褒美として七軒茶屋に御手洗団子を商うことの特権と、山城一円の法会茶屋株を公許されている。これがお茶屋の始まりであると伝えられている。現在、上七軒花街が、五つ団子の紋章を用いるのは、この御手洗団子に由来するものある。
上七軒店舗の会、匠会の公式HPによると、現在上七軒には10軒のお茶屋さんがある。上七軒では、春の北野をどり、秋の寿会が、歌舞連場で開催されている。
「上七軒の町並み」 の地図
上七軒の町並み のMarker List
No. | 名称 | 緯度 | 経度 |
---|---|---|---|
上七軒1 | 35.0296 | 135.7392 | |
上七軒2 | 35.0297 | 135.7388 | |
上七軒3 | 35.0304 | 135.7373 |
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