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祇園の町並み その3



祇園の町並み (ぎおんのまちなみ) その3 2008年05月20日訪問

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祇園の町並み 四条通に面した一力亭

 最終日の朝、八坂神社脇のホテルをチェックアウトし、荷物を持ったまま修学院離宮などがある洛北を目指す。修学院離宮の決められた拝観時間より少し早めにホテルを出て、市営地下鉄・東山駅に向うが、その途中で朝の祇園を見学する。前日の夜半の雨も早朝には上ったものの雲の流れは速く、本日の天気はどのようになるか定まらない。祗園の石畳は昨晩の雨のお陰で綺麗に洗われている。一力亭を中心とする四条通の南側の祇園を歩く。

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祇園の町並み 四条通花見小路下る

 上七軒でも触れたように、京都の花街は現在5箇所となっている。既に島原には御茶屋が存在していないため、六花街(祇園甲部、祇園東、島原先斗町、宮川町、上七軒)と呼ばれているものの京都花街組合連合会に加盟するのは5地区となったためである。もともとこの6地域以外にも花街は存在していたが、時代の変遷に伴って合併、消滅や廃止されてきた。Wikipediaの京の花街には以下のような花街の名前が残されている。
     清水新地 明治 6年 (1873) 消滅
     辰巳新地 明治 6年 (1873) 消滅
     白梅図子 明治 7年 (1874) 消滅
     三本木  明治 9年 (1876) 消滅
     壬生   明治13年 (1880) 消滅
     下河原  明治19年 (1886) 祇園甲部に合併
     二条新地 明治20年 (1887) 廃止
     墨染   明治44年頃(1911) 消滅。
     五条橋下 大正初期  (1912) 七条新地に合併。
     下の森  昭和初期  (1926) 消滅
     五番町  昭和33年 (1958) 廃止
     七条新地 昭和33年 (1958) 廃止(五条楽園)
     撞木町  昭和33年 (1958) 廃止
     中書島  昭和45年 (1970) 廃止。

 この祗園には祗園甲部と祗園東の2つの花街が存在している。四条通の北側で花見小路の西側すなわち八坂神社円山公園側を祗園東、それ以外の四条通から建仁寺までの地域や四条通より北側で花見小路と鴨川の間の地域は祗園甲部と呼ばれている。

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祇園の町並み 現在の一力亭の玄関は花見小路沿いに設けられている

 八坂神社の門前町として発展してきた祗園界隈は、既に平安時代後期には京の中心地として栄えていた。しかし応仁の乱(応仁元年(1467)~文明9年(1477))で全てが燃え尽くされてしまう。その後、八坂神社や清水寺に参拝する人々で再び賑わいを取り戻した江戸時代初期に、八坂神社の門前で水掛茶屋が営業されるようになる。これが花街としての祗園の始まりである。茶店で働く給仕の中でも、踊りや唄・三味線などで客をもてなす芸達者な茶汲み女性が人気となり、次第に専門化し芸妓や舞妓の始まりだと考えられている。水茶屋は単なる茶店ではなくお座敷で遊興できる御茶屋として、徳川幕府に公認され享保17年(1732)には茶屋株を持つ商形態を許されている。この際に団子をモチーフにした紋章が作られ、現在も祇園甲部と祇園東の紋章として使われている。江戸末期にはお茶屋が500軒、芸妓、舞妓、娼妓合わせて1000人以上いたという。
 しかし明治時代に入り、東京奠都によって活気を失った祗園にかつての賑わいを取り戻すため、明治5年(1872)一力亭の九代目杉浦治郎右衛門は、槇村正直や初代京都府知事長谷信篤の協力を得ながら祇園甲部歌舞会を設立する。芸による職業女性としての自立と地位向上をめざしたものであった。この時期に創設された女紅場などとも同じ趣旨であったとも考えられる。
 また、京都博覧会の付け博覧会として都をどりを企画し創設した。第一回の都をどりの振り付けは三世井上八千代が行い、これ以降の祇園甲部の舞いは井上流とされた。祇園は文人や政治家等によって大いに繁栄している。明治14年(1881)第3代京都府知事・北垣国道の命により、膳所裏と呼ばれていた一部の地域は祇園乙部として分離し、昭和24年(1949)祇園東新地と名を改め、昭和30年(1955)頃から祇園東という名に変わっている。この地には膳所藩邸があったため膳所裏という呼び方になっていたのであろう。この滋賀県膳所藩の屋敷も明治4年(1870)に取り払われている。

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祇園の町並み

 大正元年(1912)貸座敷取締規制改正により四条通の南北側、縄手通(大和大路通)におけるお茶屋営業が禁止される。現在のように一力亭の玄関が花見小路側になったのはこの時からであり、それ以前は四条通に面していた。
 第二次世界大戦が始まると白川沿いの北側は建物疎開で破壊され、現在は遊歩道となっている。、祇園甲部はすぐに営業を再開し、その5年後には都をどりを南座で復活している。後に歌舞練場に戻り、今に至っている。

 新橋地区、白川沿い南側の茶屋昭和30年代から40年代(1955~1974)にかけてお茶屋150軒、芸妓、舞妓合わせて600人を数えたが、時代の流れと共に花街の規模は縮小している。
 この町のシンボルというべき舞妓も一時は20人以下へと落ち込んでいたが、近年徐々に回復し、現在は30人弱にまで増えていると言われる。

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祇園の町並み

「祇園の町並み その3」 の地図





祇園の町並み その3 のMarker List

No.名称緯度経度
 祇園 一力亭 35.0036135.7751
01  建仁寺 方丈 35.001135.7737
02  八坂神社 本殿 35.0036135.7785
03  円山公園 35.0035135.7807

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