文書と写真・地図による「記憶」の再現

青蓮院門跡 その2

天台宗 青蓮院門跡(しょうれんいんもんぜき) その2 2008年11月22日訪問

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青蓮院門跡 長屋門の夜の姿

 柳馬場三条下ルの晃庵で夕食を終え、青蓮院門跡の夜間拝観に向う。坂本龍馬妻お龍実家楢崎家跡の碑が建つ晃庵から、お龍の父である楢崎将作が侍医として仕えていた青蓮院宮尊融法親王に向うことは、意図していたものではなく偶然である。

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青蓮院門跡 長屋門の昼
2008年5月16日撮影
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青蓮院門跡 粟田御所

 繰り返しになるが、青蓮院宮尊融法親王は文政7年(1824)伏見宮邦家親王の第4王子として生まれ、天保7年(1836)仁孝天皇の猶子となる。嘉永5年(1852)青蓮院門跡門主の座に就き、法諱を尊融と改める。宮門跡の青蓮院は、粟田口の地にあったことから、歴代門主同様青蓮院宮または粟田宮と称されている。尊融法親王は後には天台座主にも就く。

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青蓮院門跡 境内から見た楠の巨木
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青蓮院門跡 一文字型手水鉢

 青蓮院宮は日米修好通商条約の勅許に反対するとともに将軍徳川家定の後継者として一橋慶喜を支持するとともに、戊午の密勅に関わったことから、安政の大獄においては隠居永蟄居が命じられる。戊午の密勅とは、安政5年(1858)8月8日孝明天皇が水戸藩に勅諚を下賜した事件である。関白九条尚忠の裁可を経ないままの下賜であったため密勅とされている。野口武彦著の「幕末バトル・ロワイヤル 井伊直弼の首」(新潮新書 2008年刊)では、この密勅の内容を下記の3点にまとめている。

     ・将軍が調印是非の伺いを立てながら臣下が調印したのは不審

     ・三家か大老かと指定して召命したのに尾・水二候を処罰した理由の明示

     ・内憂があっては国家の一大事であるから、大老・老中はじめ徳川三家・三卿・家門・列藩一同が群議評定して公武合体のための一致

 さらに「別段、水戸中納言へ仰せ下され候」という添書が付けられていた。もともと朝廷が幕府の政治方針に対して介入することが江戸時代を通じてなかっただけでなく、今回は水戸藩を特別視している点が、さらに幕府権威の失墜を印象付けた。

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青蓮院門跡 相阿弥の庭
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青蓮院門跡 相阿弥の庭

 その頃の京では、梁川星巌、梅田雲濱、頼三樹三郎、池内大学らが堂上公卿に鎖国攘夷を入説していたため、この密勅が前内大臣三条実万の周辺で計画されたことがすぐに発覚する。安政5年(1858)9月7日に長野主膳によって梅田雲濱が捕縛される。すでに梁川星巌は9月2日にコレラで死去していたため、捕縛からは逃れる。そして17日江戸では三条家家臣飯泉喜内を筆頭に大量検挙が始まる。そして入京した間部詮勝によって、18日には戊午の密勅を水戸藩主徳川慶篤にもたらした水戸藩京都留守居役 鵜飼吉左衛門と子の幸吉が捕縛されている。これが多くの血が流される幕末の始まりとなる安政の大獄である。野口氏が指摘しているように、戊午の密勅が100人以上の尊皇攘夷や一橋派の大名・公卿・志士らが連座する弾圧に繋がるとは、誰も最初は考えていなかったのではないだろうか。これを利用して反対勢力を叩くことは意図したかもしれない。しかし大疑獄と呼ばれるものにしたのは、沸騰しつつある京の政情に対する井伊直弼と長野主膳の危機感であり不安であった。
 7月5日の井伊直弼詰問のための登城が不時登城の罪に問われ、徳川斉昭は永蟄居、徳川慶篤、徳川慶勝、松平春嶽、伊達宗城、山内容堂などが隠居あるいは謹慎となり、罪状不明のまま一橋慶喜も翌安政6年(1859)に隠居謹慎処分となる。藩兵を率いて上洛を計画していた島津斉彬は、その直後の安政5年(1858)7月16日に急死している。

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青蓮院門跡 相阿弥の庭
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青蓮院門跡 相阿弥の庭

 そして朝廷へも一条忠香(慎十日)、近衛忠煕(辞官・落飾)、鷹司輔煕(辞官・落飾・慎)、鷹司政通(隠居・落飾・慎)、三条実万(隠居・落飾・慎)の処罰が加えられている。辞官となった者でも、大獄の終結後に近衛忠煕は文久2年(1862)関白内覧に復帰し、鷹司輔煕も文久3年(1863)近衛の後を受けて関白に就任している。これに対して三条実万は隠居地の一乗寺堀の内町で病を患い、安政6年(1859)に急死している。石田孝喜氏の「幕末維新京都史跡辞典」(新人物往来社 1983年刊初版)では、実万は到来物の菓子を隣家の渡辺喜左衛門に分け与え、これを食した喜左衛門がその夜の内に中毒死したと記している。つまり実万の急病死も幕府による毒殺だったのではないかと推測される。安政の大獄の朝廷に対する処置の中で最も過酷を極めたものは、近衛忠煕や鷹司輔煕ではなく三条実万に対するものであった。すなわち摂家ではなく、一段家柄が下がった清華家出身の実万が象徴的に処罰されたとも見える。
 だから青蓮院宮家からも家臣の山田勘解由やお龍の父である楢崎将作が連座したものの、青蓮院宮に対する処罰は隠居・慎・永蟄居に留まっている。幕府は五摂家に対する処罰で終わらせず、安政の大獄を親王にまで拡大することで幕威の回復が果たされると考えたのであろう。そしてその対象が青蓮院宮であったことは、今回の運動の象徴であったこと共に、宮の周辺に政治的な力が存在していたためである。

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青蓮院門跡 相阿弥の庭
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青蓮院門跡 相阿弥の庭

 青蓮院を出て相国寺塔頭の桂芳軒に幽居した法親王は、青蓮院宮を名乗れなくなったため獅子王院宮と称している。そして桜田門の変の後の文久2年(1862)に赦免されると、国事御用掛に任命され朝政に参画する。そして翌文久3年(1863)に還俗し、最も有名な中川宮朝彦親王を名乗ることとなる。
 文久3年(1863)8月18日薩摩藩・会津藩を中心とした公武合体派は、長州藩を主とする尊皇攘夷派を京都から追放している。中川宮は、この八月十八日の政変の朝廷内の立役者でもあった。しかし3年後の慶応2年(1866)に孝明天皇が崩御されると、尊攘派公卿の復権が行われ、中川宮の朝廷内における求心力は急速に失われて行く。そして慶応3年(1867)12月9日の小御所会議とそれによる王政復古を経て、朝彦親王は明治元年(1868)親王の地位を剥奪され、広島藩預かりに処せられている。単なる旧政権担当者に対する懲罰とも見えるが、本当の所は孝明天皇の信任を得て、会津藩と薩摩藩を纏め上げ長州藩と攘夷派公卿を追い落とす八月十八日の政変を演出した実力を恐れたのではないだろうか。

 明治5年(1972)朝彦親王は伏見宮に復籍している。同8年(1975)に久邇宮家を創設して久邇宮朝彦親王となる。新政府の中枢には入らず、また東京へ移住することもなかった。それにも拘らず公家社会に隠然たる勢力を保ち伊勢神宮の祭主を務め、神職育成する皇學館大学の創設を手掛けたが、明治24年(1891)に亡くなっている。

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青蓮院門跡

 多くの子をもうけた朝彦親王であるが、そのうちの一人である久邇宮邦彦王の第1王女が、後の香淳皇后となっている。良子女王が皇太子裕仁親王の妃に内定する際に、宮中某重大事件が発生している。つまり元老山縣有朋達が、家系に色盲の遺伝があるため女王及び同宮家に婚約辞退を迫った事件である。結局、大正10年(1921)裕仁親王本人の意向で婚約辞退は撤回され、山縣の権威は大きく失墜し、翌年失意のうちに死去している。
 この事件の背景には優生学的な懸念や島津閥の影響力を阻止する目的もあったが、それよりも久邇宮家の祖である中川宮が八月十八日の政変などで政治的事件へ干渉したことが思い出され、久邇宮家の国政干渉が再現される可能性を危惧していたとも言われている。まだ脆弱な新政府が、旧幕派と連携により転覆されるのではないかという恐怖感から、上記のように朝彦親王を広島藩預かりにしている。大正の時代に入ってもなお、明治の元勲の生き残り達はその悪夢に魘されていたことが良くわかる。
 昭和22年(1947)10月14日 他の宮家同様、久邇宮は当主以下10名が皇籍離脱している。香淳皇后の実家であったにも関わらず、宮家中最多の離脱人数となった。ついに朝彦親王の系譜が国政干渉するのではないかという恐れは杞憂に終わったが、今上天皇以下の皇室は、香淳皇后を介して朝彦親王の血統を継いでいることを考えると、朝彦親王が慶応3年(1867)12月9日に受けた屈辱は政変後の50年、そして親王の死後30年を経て見事に晴らされたとも言えるだろう。

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青蓮院門跡

 晃庵を19時頃に出て、三条通をそのまま東に歩いて行く。河原町通を越え、池田屋跡の前を通り、三条小橋の傍に建つ佐久間象山と大村益次郎の遭難地を示す道標を見ながら進むと、鴨川に架かる三条大橋が現れる。すっかり日の落ち、西岸に軒を連ねた店に灯る明かりを見ながら橋を渡ると、京阪三条のバスターミナルに入る。京阪鴨東線の地下化、地下鉄東西線の開通以前は、バスやタクシーだけではなく出町柳や大津に向かう列車も見られた。同じ駅ではあるが様相が一変している。そのまま東大路通を越えて三条通を東に進み、平安神宮に連なる神宮道で南に折れる。東山の傾斜地を少し登っていくと左手の大きなバス駐車場の奥にライトアップされた青蓮院門跡の長屋門が現れる。晃庵からここまで徒歩で30分弱であった。

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青蓮院門跡

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