文書と写真・地図による「記憶」の再現

東山の町並み その2

東山の町並み(ひがしやまのまちなみ) その2 2008年11月23日訪問

画像
東山の町並み 祇園閣

 昨日同様に、円山公園より、祇園閣の屋根を眺めながら大雲院の前を通る。あまり上を見すぎていると、大雅堂跡、西行庵そして芭蕉堂を見逃してしまう。前回の訪問の時にも大雅堂跡の碑と芭蕉堂を見つけることが出来なかったので、次回はもう少し時間を作って調べてみることとする。ねねの道に入り、御陵衛士の屯所となった月真院と圓徳院の間を抜けると、高台寺の台所坂が左手に見える。石塀小路の入口を過ぎると高台寺の塔頭である春光院の門が現れる。

画像
東山の町並み 祇園閣
画像
東山の町並み 祇園閣

 豊臣秀吉の妻であり高台寺の開基である北政所の兄 杉原定利には木下家定という子がいた。早くから秀吉に仕えていた家定は、縁者の少ない秀吉より木下姓を与えられている。その後、播磨姫路城主に任じられ、豊臣姓も下賜されている。秀吉の死後、家定は関が原の戦いで中立を保ち、今度は家康より備中足守に2万5000石の所領を与えられている。そのため家定と足守を継いだ次男・利房の一家は足守木下家と呼ばれている。
 春光院は、この家定の長男である勝俊が先祖の菩提を弔うため、あるいは早世した娘の菩提を弔うために、寛永4年(1627)その号をとって建立した寺院とされている。木下勝俊は関が原の戦いで東軍に属し、鳥居元忠と共に伏見城の守備を任されている。しかし弟の小早川秀秋が率いる西軍が攻め寄せる前に城を逃れたため戦後改易されている。号を長嘯子として京都東山に隠棲し、林羅山や松永貞徳ら文化人らと親交を持ち、特に和歌に優れ多くの歌集を残している。

画像
東山の町並み 高台寺塔頭 月真院
画像
東山の町並み 高台寺塔頭 春光院

 また春光院は幕末の勤王僧月照の隠棲の地でもある。文化10年(1813)大坂の町医者 玉井鼎斎宗江の長男として生まれている。文政10年(1827)15歳で叔父の蔵海の弟子となり京都の清水寺成就院に入る。この時近藤正慎もともに弟子入りしている。天保6年(1835)蔵海の病死に伴い成就院の住職になる。しかし安政元年(1854)寺務を実弟の信海に譲り、寺を出て攘夷運動に挺身した。安政2年(1855)大徳寺小倉庵に仮住まいした後、春光院に移住している。ここに隠棲しながら、勤王の志士と会い、西郷隆盛や有村俊斎らと密議を重ねた。そして右大臣の近衛忠煕邸にも出入りし、青蓮院宮にも謁見している。 安政3年(1856)春光院の改築に伴い、長楽寺に移り、安政4年(1857)には再び清見寺成就院に戻り、信海と同居している。そして安政の大獄の追求に伴い、安政5年(1858)9月近衛忠煕の勧めにより西郷と有村に伴われて薩摩に落ち、同年錦江湾で入水する。
 月照と西郷の密議の跡としては清水寺の東南に位置する清閑寺の郭公亭も有名である。またこの春光院の斜め前には翠紅館跡があり、池田屋事件後に行われた残党狩りの最中に生じた事件で有名な明保野亭も清水寺の手前にあったとされている。この辺りでは勤王の志士達の密議が実に多く行われた。

画像
東山の町並み 二寧坂

 文政10年(1827)月照とともに成就院に入寺した近藤正慎は義天房独一と称し、同12年(1829)成就院末の金蔵院の住職になっている。しかし天保13年(1842)に還俗、丹波亀山の近藤市左衛門の養子となり、成就院の寺侍となっている。正慎は、攘夷活動に挺身していた月照を助け、勤皇の志士の連絡にあたった。しかし安政5年(1858)月照は寺務を正慎に託し、西国に下る。正慎は9月10日に伏見まで月照を見送った後、志士の間で交わされた書簡を焼き捨て証拠を隠滅した。10月3日成就院に西町奉行の捜査が入り、正慎は六角獄につながれた。証拠が隠滅されたため、成就院での家宅捜査から得られるものがなかった。そのため正慎に対する尋問は拷問に変わり、苛烈を極めた。正慎は月照の所在について黙したまま、10月24日獄中で自ら舌を噛み切って死んだ。
 正慎の遺骸は霊山護国神社の参道である維新の道を挟んで春光院の南側にある青龍寺に葬られた。そして残された妻子が路頭に迷わないように、清水寺は境内に茶店を出させている。現在も子孫によって営業されている舌切り茶屋がそれである。霊山護国神社の官修墳墓録には、

    唱義ノ部第13号 在所 青竜寺境内 明治3年10月清水寺住職忍慶設立
    安政5年10月24日獄中ニ死 従五位 近藤正慎義重 43歳

と記されている。また月照と信海も唱義ノ部第17号に掲載されている。

 近藤正慎は、龍馬伝で山内容堂を演じた近藤正臣氏の曽祖父にあたる。2010年2月6日の土曜スタジオパーク(http://www.nhk.or.jp/dosta-blog/backnumber/2010-02-06.html : リンク先が無くなりました )に出演し、近藤正慎について語っている。

画像
東山の町並み 青龍苑(2008年5月撮影)

 春光院と青龍寺のある角から、一念坂から二寧坂と進む。産寧坂の石段が始まる前にある青龍苑(旧京都阪口)が幕末の明保野亭があった地で、青龍苑の南側の道を東に入ったところに残されている門が明保野亭のものだった言われている。石段の中頃にある明保野亭には明保野亭跡の碑が建てられているため、この地に幕末の明保野亭があったように思わせている。七味家本舗の角から清水寺の参道である松原通に入り、清水寺の楼門前に出る。

画像
東山の町並み 産寧坂 明保野亭の看板が見えるが…

サイト ナビゲーション

投稿カレンダー

2021年4月
 1234
567891011
12131415161718
19202122232425
2627282930  

過去の記事

カテゴリー

最近の投稿