文書と写真・地図による「記憶」の再現

西行井戸

西行井戸(さいぎょういど) 2008年12月21日訪問

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西行井戸

 去来墓の入口を通り過ぎ、「西行井戸百人一首歌碑」を眺めながら進むと、西行井戸という駒札が建つ。
 東山に残る西行庵の項でも触れたように、西行は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士、僧侶そして歌人である。永元年(1118)左衛門尉佐藤康清の元に佐藤義清として生まれている。父は秀郷流武家藤原氏の出で、藤原秀郷の8代目の子孫となる。代々衛府に仕える裕福な家庭であったと考えられている。西行も16歳の頃より徳大寺家に仕え、保延元年(1135)18歳で左兵衛尉に任ぜられている。そして同3年(1137)鳥羽院の北面の武士としても奉仕していたことが記録に残る。そして保延6年(1140)23歳で出家して円位を名のり、後に西行とも称している。 出家後の西行は諸国をめぐりながら住処を定めず、諸所に草庵を営み多くの和歌を残している。
最初は鞍馬などの京都北麓に隠棲し、天養初年(1144)頃に歌枕を訪ねる奥羽への旅に出ている。久安4年(1149)頃には高野山に入り、ここを拠点として諸国を遍歴している。仁安3年(1168)中四国への旅を行っている。このとき善通寺において庵を結んだとも考えられている。その後、再び高野山に戻るも、治承元年(1177)に伊勢二見浦に移っている。
 文治2年(1186)には東大寺勧進のため二度目の奥州下りを行い、伊勢で暮らした後、河内弘川寺に最後の庵を結ぶ。そして建久元年(1190)72歳で入寂している。

 山家集(上、冬歌)にある

     野辺寒草といふことを双林寺にてよみにける

     さまざまに 花咲きけりと見し野辺の 同じ色にも霜枯れにけり

という一首より、出家の翌年となる永治元年(1141)から、雙林寺の塔頭である蔡華園院に止住していたと推測されている。そして山家集(上、春歌)にある有名な歌

     願わくば 花の下にて春死なん その如月の望月の頃

は、晩年雙林寺で修行に明け暮れた時期に創られている。この東山の西行庵は出家から最晩年の間、おそらく天正年間(1573~93年)に蔡華園院の跡地に結ばれたと考えられている。
 そして嵯峨野でも西行は、庵を結んだと考えられている。嵯峨二尊院内に西行法師庵の跡を示すが残されている。西行はこの二尊院門前近くに庵を結んでいた。またこの嵯峨から桂川を渡り南に下った嵐山山田町の西光院前にも西行法師旧跡の碑が建つ。
 西行井戸は、西行法師が二尊院付近に結んだ庵のために使った井戸とされている。石垣の前に設けられた井戸口は竹で組まれているため、井戸の中の様子が分からない。井戸の左上には西行法師の歌碑が建てられている。

     牝鹿なく 小倉の山の すそ近み ただ独りすむ わが心かな

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西行井戸

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