愛宕念仏寺 その2
天台宗延暦寺派 等覚山 愛宕念仏寺(おたぎねんぶつじ)その2 2008年12月21日訪問
愛宕念仏寺にとって大きな転機となったのは、大正11年(1922)堂宇保存のために行われた移築であろう。3年間をかけて現在の嵯峨の地に堂宇を移したものの、その後も寺門は興隆しなかったようだ。
昭和30年(1955)仏師で、後に天台宗の僧侶となった西村公朝が愛宕念仏寺の住職となり、復興に当たる。
西村公朝は大正4年(1915)大阪府高槻市に生まれ、昭和15年(1940)東京美術学校卒業。翌昭和16年(1941)に現在の財団法人美術院となる美術院に入所し、仏像修理の道に入る。三十三間堂の十一面千手観音千体像の修理に加わるが、昭和17年(1942)召集令状を受け取り中国へ出征する。そうだ 京都、行こう。のHP 西村公朝が伝えたかった仏の心には、中国戦線の夜間行軍で見た不思議な夢の話が掲載されている。無事に日本に帰国し、三十三間堂に戻ると、修復作業は戦時下から敗戦後の混乱期も続けられていた。公朝は仏師の道に進むことを決め、再び千体観音像の修復に取り掛かる。この作業は21年間の歳月を要し、昭和33年(1958)に全修復作業が完了する。公朝は600体の修理に携わっている。翌昭和34年(1959)美術院国宝修理所の所長に就任し、昭和49年(1974)には母校である東京芸術大学の教授に着任している。
また仏像修復者としての西村公朝の最も有名なエピソードは、昭和35年(1960)の広隆寺・弥勒菩薩半跏像の右手薬指破損を修復に携わったことであろう。日本で最初に指定された国宝のひとつである広隆寺の弥勒菩薩半跏像の右手薬指が、京都大学生によって折られる事件が起きる。犯行動機は、「あまりにも美しくつい手を触れてしまった」とされる有名な事件であった。美術院国宝修理所の所長を務める公朝は、三つに割れ、捨てられたた指の破片を道端の草むらから捜し出し、そして肉眼では折損箇所を判別することは不可能なまでの修復を施している。これらを僅か1週間で成しえることを可能にしたのは、ただ単に修復技術者としての技術の高さだけでなく、仏に仕えるものとしての真摯な姿勢が導いた結果とも考えられる。
仏師として活躍するかたわら、昭和27年(1952)青蓮院で得度し、天台宗の僧侶になっている。そして昭和30年(1955)に愛宕念仏寺住職に任命されている。清水寺(成就院)の大西良慶貫主から「良い寺を悪くしたら怒られるが、荒れ寺なら少しでも良くすれば褒められる」と言われ引き受ける気になったそうだ。中々迷っている人の背中を押してあげるためには使えない言葉であり、大西貫主の迫力を感じさせる言葉でもある。
当時の愛宕念仏寺には檀家もおらず、境内は雑草が生い茂り荒廃しきった状況だった。かなり傷んだ本堂に仏像が置かれていただけでなく、多くの仏像が寺を維持するために売り払われ、本尊の千手観音像も腕を一本ずつ売却されたともいわれている。そのため千手観音の42本の腕のうち、残っていたのは僅かに4本のみであった。公朝は自らの手で失われた38本の腕を彫り、数百年経た感じを与えるように塗り、昔日を思わせる姿に修復した。また他所に移されていた鎌倉時代に造られた金剛力士像も寄付により、元の仁王門に戻されている。以後、全国各地の仏像を修理する合間を縫って、少しずつ境内を整備していった。
昭和56年(1981)仁王門修復工事が完成し、落慶法要を行う。この年より一般参拝者による石造羅漢彫りを呼びかける。一般に羅漢様とも呼ばれる阿羅漢は釈迦の弟子となり仏教を広め伝えた僧侶のことである。釈迦が入滅した時、教えを正しく伝えるため高弟500人が集まり、その100年後に700人が集まったという故事があるようだ。十六羅漢、五百羅漢は有名だが、愛宕念仏寺では公朝の呼びかけにより、まず1年で500体が奉納された。比較的彫りやすい大谷石を素人でも、寺に通いながら作業すると7日から10日で完成するようだ。羅漢像奉納を希望する人が絶えず、さらに700体が彫られ合計1200体に及んだ。羅漢像奉納を開始してから10年後の平成3年(1991)に千二百羅漢落慶法要が行われた。
境内の熊笹の生い茂る斜面に一つ二つと姿を現す羅漢像は、やがて本堂脇の斜面を幾層にも渡ってびっしりと埋め尽くす。その一つ一つは個性を持ち、二つと同じ姿はない。恐らく同じ作者によって作られたものでないからだろう。公朝が若い頃に修復した三十三間堂の十一面千手観音千体像とは、まさに対極に位置するものである。つまり同じ姿のものを大量に整列させた時の迫力とは違う感覚が見るものを圧倒する。大きさと素材をある程度統一したことによる調和感は残るものの、違う表情をした石像を並べることによって無限性のようなものが感じられる境内となっている。まさに「現代を生きる人々に、もっと仏の教えを身近に感じてもらいたい」という信念が表現された空間となっている。
またこの年から、ふれ愛観音の制作を始めている。公朝はテレビ局の企画に協力し、全盲の女性が仏像に触れる場面に立会い、人が触ることの出来る仏像がないことに気がついたのであろう。現在、信仰の対象であった仏像は文化財や美術品となり、触れることができない観賞の対象となっている。これがまた仏像あるいは仏教を我々から遠ざけてしまったのかもしれない。原型像から鋳造されたふれ愛観音は、清水寺や鎌倉の長谷寺をはじめ北海道から九州までおよそ60カ所で祀られているという。
平成6年(1994)より釈迦十大弟子像制作を開始ひ、毎年1体ずつ制作してきた。平成15年(2003)最後の迦旃延像を彫り上げ、その2ヶ月後に89歳で亡くなっている。
先に触れた鎌倉時代作の仁王像が収められた朱塗りの仁王門を潜り境内に入ると、すぐに斜面が迫ってくる。愛宕念仏寺は斜面に沿って建設されていることが分かる。今回は外部を眺めるだけだったが、右手には羅漢洞と呼ばれる堂宇がある。内部には蓮華蔵世界を描いた天井画があり、仏の世界についての解説を聞くことができるようだ。西村公朝の遺作となった十大弟子像とともに多くの作品が展示されている。羅漢洞の前を過ぎ、本堂を目指して斜面を九十九折に上っていく。すでにこの辺りから1200羅漢像が徐々に始まる。本堂へ続く参道の途中には三つの鐘を吊るした中国風の鐘楼が現れる。それぞれの鐘には仏・法・僧の文字が一文字づつ刻印されている。
参道の石段を登りきった正面には地蔵堂が建てられている。平安時代から、あたご本地仏火除地蔵尊として、京の都を火災から守り、火難除けとして霊験あらたかな「火之要慎」の御札で知られている。また古くから延命地蔵さんとしても親しまれ、毎月24日のご縁日には法要が営まれている。
地蔵堂の前で180度向きを変えると右手にふれ愛観音を収めた観音堂、正面に本堂、そして左手の斜面にびっしりと羅漢像が並んでいる。本堂には本尊の千手観音が、平安時代から厄除けの観音様としてまつられている。また重要文化財に指定されている本堂は、方五間、単層入母屋造で、鎌倉時代中期に建立されている。
本堂の左手には朱塗り二層の多宝塔と石造の釈迦像が見える。多宝塔も三宝の鐘の鐘楼やふれ愛観音堂と似たデザインになっている。この塔の手前には天台宗の宗祖・伝教大師(最澄)像が建てられ、さらにその奥の高台には金色の虚空菩薩像が祀られている。
この記事へのコメントはありません。