清水寺 成就院
清水寺 成就院(きよみずでら じょうじゅいん) 2008年11月23日訪問
産寧坂から松原通に入り、そのまま参道を上っていくと、正面に清水寺の仁王門が石段上に現れる。通常の拝観ならば、そのまま石段を上り本堂を目指すが、成就院へは仁王門の左脇にある馬駐から真直ぐ続く坂道を進む。坂道を上りきると正面に池が広がる。池の東南部分は高台になっており、位置的には地主神社につながっている。池の周囲の木々はやや盛りを過ぎてはいるが、美しい紅葉となっている。この池に面するように成就院が建てられている。まだ特別拝観の開始時刻の9時になっていないため門は閉ざされているが、徐々に拝観者が集まってきている。成就院は通常非公開の寺院で、春と秋に特別公開されるため、この時期に合わせて訪れた拝観者であろう。
成就院は北法相宗大本山 音羽山 清水寺の塔頭である。応仁の乱で焼失した清水寺を復興した願阿上人によって文明年間(1469~87)に創建されている。以降、清水寺の本願職を伝統としている。
願阿上人、願阿弥は生年不詳であるが、越中国の漁師の家に生まれとされている。殺生の報いを悟り時宗に入り、勧進聖として当時の社会事業に尽くしている。当時流失していた五条大橋を富裕の人々から寄付を募り架け替え、南禅寺仏殿の再興も手掛けている。長禄3年(1459)長谷寺の本尊開帳に際して、勅許の綸旨を興福寺へ持参している。
長禄3年(1459)から寛正2年(1461年)にかけて日本全国を襲った長禄・寛正の飢饉は、全国的な旱魃や畿内への台風の直撃などの自然災害に加え、関東地方の享徳の乱、畠山氏の家督争い、斯波氏の長禄合戦などが重なり事態は深刻化した。飢餓と疫病によって、寛正2年(1461)の最初の2ヶ月で京都で8万2千人の死者が出たと言われている。慈照寺の項で触れたように、第8代将軍足利義政は邸宅造営などの土木事業や猿楽、酒宴に溺れていた。この寛正の飢饉の間も花の御所の改築を行っている。長禄寛正記では後花園天皇が義政に漢詩を以って戒めたとされている。この年、願阿弥は義政より100貫文を与えられ、飢民への施食を命じられている。京の人々から寄付を募り、2月から六角堂の南に小屋を建て飢民に粟粥を施す活動を始めたが、飢民の数があまりに多く、資金が尽きて1ヶ月程で施食を止めざるを得なかった。そして、このような混乱は5年後に発生する応仁の乱への下敷きともなっていった。 応仁の乱後の文明10年(1478)願阿上人は大勧進により清水寺の梵鐘を鋳っている。そして翌11年(1479)勧進状・奉加帳を作り、西日本全域に諸堂復興の勧進活動を開始し、同16年(1484)諸堂を落慶している。この寺再建の功労として成就院願阿と呼ばれるようになった。その2年後の文明18年(1486)5月13日に願阿弥は病没している。
成就院は室町時代の後期、永正7年(1510)に第104代後柏原天皇の勅願寺となっている。寛永10年(1633)第3代将軍徳川家光によって行われた清水寺堂塔の再建後の寛永16年(1639)に、現在の成就院の建物は東福門院の寄進によって再建されている。
江戸時代末期に成就院が歴史の表舞台に現れるのは、第24世月照と第25世信海の兄弟を輩出したことによっている。既に東山の町並み その2でも触れたとおり、月照は文化10年(1813)大坂の町医者 玉井鼎斎宗江の長男として生まれている。文政10年(1827)15歳で叔父の蔵海の弟子となり京都の清水寺成就院に入っている。天保6年(1835)蔵海の病死に伴い成就院の住職になる。しかし安政元年(1854)寺務を実弟の信海に譲り、寺を出て攘夷運動に挺身している。安政2年(1855)大徳寺小倉庵に仮住まいした後、春光院に移住し、この地で西郷隆盛や有村俊斎らと密議を重ねたとされている。そして右大臣の近衛忠煕邸に出入りし、青蓮院宮にも謁見する機会を得ている。 安政3年(1856)春光院の改築に伴い、長楽寺に移り、安政4年(1857)には再び清見寺成就院に戻り、信海と同居している。そして安政の大獄の追求に伴い、安政5年(1858)9月近衛忠煕の勧めにより西郷と有村に伴われて薩摩に落ちる。しかし同年7月16日に既に島津斉彬は急死したため、月照にとって薩摩藩は安住の地にはならなかった。藩は月照の日向国送りを命じ、薩摩国と日向国の国境で月照を斬り捨てるつもりであった。月照も死を覚悟し、11月16日の夜西郷と共に錦江湾に入水している。月照は亡くなり、奇跡的に一命を取り留めた西郷は流刑に処され明治維新へと続いていく。
兄の月照の後を継ぎ、安政元年(1853)成就院の住持となった信海も、幕吏に捕えられ江戸伝馬町獄舎に送られている。そして月照が亡くなった翌年の安政6年(1859)この地で獄死している。東京都荒川区の小塚原回向院に信海の墓が残されている。
清水寺北総門前には3つの石碑が並ぶ。左に信海の歌碑、中央に月照歌碑、右に西郷隆盛詩碑、そしてこれらの前には、昭和4年(1929)京都史蹟会による月照・信海両上人遺蹟を示す碑が建てられている。この近くには近藤正慎之碑と大槻重助の顕彰碑もあり、清水寺の境内にも舌切茶屋と忠僕茶屋という変わった名前の茶屋がある。舌切茶屋は六角獄舎で自死した近藤正慎の家族が生計を経てるために建てられた。大槻重助は月照の下僕として入水に立会い、その後半年に及ぶ取調べと獄中生活を経て、再び清水寺に戻り月照の墓守となっている。月照に従って方々に供としたため、密議の内容を知っている人物と目されたため、西町奉行所の追求は厳しいものであったと想像される。忠僕茶屋は重助が寺の許しを得て建てた茶屋である。 月照と信海両上人の墓は子安の塔の西の墓地にあり、大槻重助夫妻の墓もその近くにあるようだ。そして近藤正慎の墓は高台寺春光院の向かい側にある青龍寺に残されている。月照を始めとした安政の大獄で弾圧された清水寺の人々の記憶が現在まで残されている。
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