蓮華王院
天台宗蓮華王院(れんげおういん) 2008年05月16日訪問
智積院を出て、京都国立博物館とハイアットリージェンシー京都の間を西に進むと、七条通の南側に蓮華王院が現れる。大和大路通の角から境内に入る。
蓮華王院は、智積院の北側に位置する天台宗南叡山妙法院の境外寺院であるため、山号がない。また、広く三十三間堂と呼ばれているのは、蓮華王院の本堂内陣の柱間が33あるという建築的な特徴からきている。この33という数字は観音菩薩の変化身三十三身にもとづいて決められている。ちなみに建物外部の柱間は35となる。
この地にはもともと後白河上皇が離宮として建てた法住寺殿があった。後白河天皇は大治2年(1127)鳥羽天皇の第四皇子・雅仁親王として生まれる。久寿2年(1155)第一皇子であった近衛天皇が崩御すると譲位され、後白河天皇となる。後白河天皇の第一皇子であり美福門院の養子となっていた守仁親王が即位するまでの中継ぎとされていたため、3年後の保元3年(1158)に予定通り守仁親王に譲位(二条天皇)を行っている。当時、後白河院政派、二条親政派、信西一門そして平氏一門が形成されていた。やがて各派閥間の摩擦が高まり、平治元年(1159)に院近臣らの対立による平治の乱の発生に至る。同年12月に藤原信頼と源義朝の軍勢が院御所である三条殿を襲撃し、後白河上皇と上西門院の身柄を確保すると共に、信西を自害に追い込む。二条天皇の六波羅行幸と後白河上皇の仁和寺への脱出により、信頼と義朝も三条殿襲撃と信西殺害の罪を問われ平清盛の追討を受けることとなった。信頼は処刑、義朝は逃亡中に殺害され、乱は終結する。信西打倒に関わった者は、後白河院政派と二条親政派を問わず政界から一掃されることとなった。こうして対立していた後白河上皇と二条天皇は、有力な廷臣が共倒れになり勢力を失い、平清盛を筆頭とする平氏の台頭を許すこととなった。
三条殿を焼き討ちされた後白河上皇は、乱終結後の永暦元年(1160)新たな院政の拠点として、六波羅の南、東七条末の地に法住寺殿の造営に取り掛かる。この地は摂関期に藤原為光が法住寺を創建したが早くに衰退し、平治の乱で焼失した信西の邸や藤原清隆・紀伊二位の御堂などが建ち並んでいた。新御所の造営は平氏をうしろだてにした上皇の権威で行われた。そして10余町の土地を囲い込み、大小80余堂を壊し、鎮守として日吉社・熊野社を勧請して造り上げた法住寺殿に、後白河上皇が移り住んだのは永暦2年(1161)のことであった。
法住寺殿は南殿、西殿、北殿の三御所によって構成されていたと考えられている。上皇の住まいとされていた南殿には、東小御堂、不動堂、千手堂がたちならび、広大な池もあった。長寛2年(1165)平清盛の寄進により南殿の北側に蓮華王院が造営された。創建当時は五重塔なども建つ本格的な寺院であったとされている。
上皇と平家の栄華を象徴する法住寺殿は、寿永2年(1183)に木曾義仲の軍勢によって南殿に火がかけられる。上皇は六条西洞院の長講堂に移り、建久3年(1192)に法住寺殿に戻ることなく生涯をおえる。焼失した法住寺殿の敷地に法華堂が造られ、上皇の御陵と定められた。
その後、三十三間堂は建長元年(1249)市中からの火災により焼失してしまう。現存する建物は文永3年(1266)に再建されたものである。入母屋造本瓦葺の本堂は東西22メートル、南北120メートルと他に例を見ない長大な建築であり、国宝に指定されている。
室町時代に入ると第6代将軍足利義教の時に、本格的な修復が行なわれている。京の禅寺に修理の寄付勧進を命じ、屋根瓦の葺き替えをはじめ、中尊・千体仏と5ケ年を費やして内外両面の整備を行っている。
豊臣秀吉は北隣に大仏殿方広寺を造営し、三十三間堂や後白河上皇の御陵を境内に取り込み、土塀を築いている。これが重要文化財に指定されている南大門と太閤塀である。南大門は、切妻造本瓦葺、三間一戸の八脚門である。豊臣秀吉が建立した方広寺の南門を豊臣秀頼が現在の位置に移築している。瓦に豊臣家の桐紋の文様が用いられていることから太閤塀と呼ばれる築地塀である。方広寺大仏殿の外塀から移築されたもので、かつては西にも存在したようだが、現在は南の塀のみ残っている。秀吉もまた本堂や千体仏の修理も行い、その意志は秀頼の代まで引き継がれている。
江戸時代に入り、慶長18年(1614)徳川家康は蓮華王院の管轄権を、祇園綾小路小坂からこの地に移ってきた妙法院に定めている。これが現在まで続いている。
堂内中央の木造千手観音坐像(附木造天蓋)を中心に、木造風神・雷神像、木造二十八部衆立像そして1001躯の木造千手観音立像が安置されている。
湛慶最晩年の建長6年(1254)作、像高335センチメートルの千手観音坐像、同じく鎌倉復興期に造られた風神・雷神像と二十八部衆立像は、本堂の建築と共に国宝に指定されている。そして千手観音坐像の左右に前後10列の階段状の壇上に整然と並ぶ等身大の千手観音立像も重要文化財に指定されている。各像は頭上に十一の顔をつけ、両脇に40手を持つ中尊同様の造像法で作られている。124体は、創建時の像で、その他は鎌倉期に16年かけて再興されたものである。約500体には作者名が残され、運慶、快慶で有名な慶派をはじめ、院派、円派と呼ばれる当時の造仏に携わるものが含まれていることからも、この三十三間堂の造営が国家的規模のプロジェクトであったことが伺える。
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