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泉涌寺 雲龍院 その2



泉涌寺 雲龍院(うんりゅういん)その2 2008年12月22日訪問

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泉涌寺 雲龍院 書院庭園の全景

 泉涌寺 雲龍院の項から書き始めた、室町幕府の開闢から雲龍院の創建にかけての40年間の政治情勢をもう少し続ける。
 足利尊氏は南朝と和睦を結ぶという禁じ手を使用することで、一時的に足利直義討伐に勢力を集中することが可能になり、直義を降伏に追い込むことに成功する。しかしこの代償は大きかったのではないだろうか。尊氏は再び南朝方の攻勢に晒されるようになる。
 北畠親房の指揮の下、東西で呼応して京と鎌倉の同時奪還を企て、正平7年(1352)2月に尊氏の征夷大将軍を解任し、後醍醐天皇の皇子・宗良親王を奉じている。そして新田義興、新田義宗らが、直義を破った尊氏を武蔵国へ追い出し、鎌倉を奪還している。そして南朝方の主力である楠木正儀や北畠顕信、千種顕経、直義派であった山名時氏などが京都を攻略する。京を守っていた足利義詮は近江へ逃れ、正平一統は1年を持たずして破れる。このとき北朝の光厳上皇、光明上皇、崇光上皇、直仁親王は京都に取り残され、南朝方に捕われて吉野の賀名生へ連行されている。

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泉涌寺 雲龍院 書院庭園 南西角から眺める
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泉涌寺 雲龍院 書院庭園の東に作られた門

 南朝方が京と鎌倉を同時占拠に成功すると、後村上天皇は賀名生から山城国男山へ至る。近江へ逃れた義詮は正平一統を破棄、正平7年(1352)の年号を観応3年(1352)に戻している。義詮は、美濃の土岐氏、四国の細川氏、播磨の赤松氏、近江の佐々木氏らの勢力を動員した上、直義派であった山名氏や斯波氏らの協力も得て、3月に京都を奪還している。そして尊氏も新田義興・新田義宗を追い払い、鎌倉を奪還している。

 一時的ではあるが京都を占領した南朝によって、北朝の光厳上皇、光明上皇、崇光上皇、直仁親王が吉野の賀名生へ連行されてしまう。観応3年(1352)3月に京に帰還した足利義詮は北朝再建のため、光厳上皇の第2皇子である弥仁親王を後光厳天皇として即位させている。後光厳天皇にとって光厳上皇は父、光明上皇は叔父、そして崇光上皇は兄にあたる。それらの人々が南朝の本拠地である吉野に幽閉されている中で、北朝第4代を継いでいる。
 このように後光厳天皇が即位したものの、正平一統によって正統性を欠いた北朝の権威は、なかなか回復することがなかった。また南朝は京を奪還するなど軍事行動を活発化し、後光厳天皇も京都から近江などへ下向することが何度もあった。
 応安2年(1370)第1皇子の緒仁親王への譲位を幕府に諮問する。既に南朝も衰微し、正平10年(1355)に光明院が、そして正平12年(1357)には光厳院、崇光院そして直仁親王が帰京している。兄の崇光院も自らの皇子である栄仁親王への皇統返還を主張するが、第3代将軍足利義満のもと、管領の細川頼之の判断により、応安4年(1371)緒仁親王への譲位が行われる。このようにして北朝第5代・後円融天皇が即位する。

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泉涌寺 雲龍院 書院庭園 御陵あるいは墓地につづく道なのか?

 話しを雲龍院に戻す。雲龍院が開創された応安5年(1372)は、上記のように衰微した北朝第4代後光厳天皇が後円融天皇に譲位をした翌年に当たる。応安元年(1368)に就任した足利義満もまだ年少であったため、管領の細川頼之が後見していた。後光厳上皇は崩御する応安7年(1374)まで、院政を敷いてきたが、依然として南朝対策は膠着状況を打開できずにいた。その上、春日神木の入洛など寺社勢力による強訴が相次ぎ朝廷儀式もまた衰退する深刻な情勢であった。この様な状況が改善されるのは、義満が政治手腕を発揮し始める康暦年間(1379~1381)頃からである。義満は積極的に朝廷政治への介入を行い、明徳3年(1392)南朝との和平が成立させ南北朝時代を終結させている。

 雲龍院の開山である竹厳聖皐上人は、応永9年(1402)に入寂している。そして応永12年(1405)の盂蘭盆会の夜には早くも諸堂を焼失している。この20年後の応永35年(1428)頃には、全安上人による再建が遂げられ、北朝6代で南北朝合一による第100代・後小松天皇の行幸が執り行われている。また第101代・称光天皇を始めとし皇室の帰依を受けて、寺勢はますます発展した。
 ちなみに第102代・後花園天皇からは、後光厳天皇の皇統ではなく、後光厳天皇の兄の崇光天皇の皇統に移っている。すなわち崇光院が正統な皇統であると訴えたにも関わらず、室町幕府の管領・細川頼之によって封じられた皇統が、およそ50年後の永享元年(1429)に叶えられている。

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泉涌寺 雲龍院 書院庭園
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泉涌寺 雲龍院 書院庭園 書院からの眺め

 雲龍院の拝観の栞には、称光天皇と後小松天皇の崩御にあたり、聖汎上人(泉涌寺第32代長老)、全安上人(泉涌寺第31代長老)の奉仕により先代と同所に埋葬したとある。宮内庁の公式HPに掲載されている天皇陵では、この2代の天皇は深草北陵に祀られている。前述の栞に掲載されている竹村俊則の描いた昭和京都都名所図会と思われる鳥瞰図には、雲龍院の東側に「後光厳、後円融両帝分骨所 後小松帝灰塚」と記されている。同様のことが、天明7年(1787)に刊行された拾遺都名所図会にも以下のように記述されている。
     雲龍院〔泉涌寺の塔中なり、泉涌水の上にあり。仏殿の本尊薬師仏、坐像二尺五寸。後光厳院、後円融院二帝の宸影を安置す。又同所後山に後光厳院、後円融院、後小松院の三陵あり。当院は泉涌寺より古来の塔頭なり。開基は竹厳律師〕

 雲龍院も応仁の乱の戦火により文明2年(1470)に焼失、また地震により被災し、一時期は僅かに後光厳、後円融天皇の御尊像を残すのみとなっている。文明14年(1482)後花園天皇の13回忌を雲龍院で執り行われたことは、この時期には早くも復興していたことと考えられる。
 雲龍院の由緒によると文亀2年(1502)第104代・後柏原天皇の綸旨により、第103代・後土御門天皇の御黒戸御殿を移築している。前年の明応9年(1500)後土御門天皇が崩御し、泉涌寺で葬送されている。その時に使用された御殿が下賜され、如法御殿と名付け本堂とされている。

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泉涌寺 雲龍院 書院の丸窓と角窓

 江戸時代に入り如周宗師が隣接する後円融天皇縁の龍華院と雲龍院を統合している。この事が後水尾天皇の叡聞に達し、造営費が御下賜され写経の道場を現在の位置に再建している。寛永19年(1642)が後円融天皇250回忌にあたり、後水尾天皇より写経会に要する仏具百余点の寄付を受け再興を遂げている。

 如周宗師以後、御下賜金により諸堂の修理を行うとともに、鎮守堂、鐘楼等の建立がなされ東西に僧坊が設けられている。これにより各宗の門徒集まり、研鑽を励み多くの俊英を輩出したと雲龍院の公式HPで記している。そして天保14年(1843)より光格天皇の皇妃を始め、仁孝天皇両皇女、孝明天皇の両皇女を後山に葬っている。このことが雲龍院と皇室の結び付きを強くし、玄関、方丈、勅使門を賜っている。そして歴代の御尊牌を奉安する霊明殿を慶応2年(1866)に始まり、孝明天皇、明治天皇、英照皇太后の思し召しにより明治2年(1869)現存の建物が建立されている。

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泉涌寺 雲龍院 丸窓は”悟りの窓”

 今回訪問したときは、右側の表門から建設資材の搬入が行われていた。おそらく龍華殿か霊明殿の改修が行われていたのであろう。左手の山門を潜り境内に入ると、真直ぐに延段が敷かれ、その正面に庫裏の妻面が見える。右手は本堂である龍華殿の間を築地塀に隔てている。左手には鎮守社と鐘楼が並ぶ。拝観は正面の庫裏から入り、龍華殿、霊明殿を巡り書院に出る。
 重要文化財に指定されている龍華殿は杮葺入母屋造りの建物で、先に触れたように文亀2年(1502)後柏原天皇の綸旨を以って、御黒戸御殿を雲龍院に移している。当初は如法御殿と名付けられ、写経の道場とされた。杮葺のゆったりとした優美な屋根は御所の御殿を感じさせる。本尊は鎌倉時代作の薬師如来坐像で、日光・月光両菩薩を両脇に安置祀られている。
 龍華殿の南面から築地塀が巡らされ、奥の霊明殿のための空間を作り出している。霊明殿は孝明天皇・大宮御所・静寛院宮・各尼門跡宮からの援助を受けて明治元年(1868)に建立されている。内陣の中央には、北朝の後光厳天皇、後円融天皇、後小松天皇、称光天皇の御尊牌そして左側には後水尾天皇から孝明天皇までの歴代天皇、右側には東福門院・普明照院といった江戸時代の皇子・皇女の尊牌が奉安されている。これらは泉涌寺の霊明殿と同じ役割を果たしている。龍華殿の右手に作られた小さな質素な門を潜ると、石灯籠が一基だけ置かれた前庭の奥に瓦葺入母屋造の小さな霊明殿が建てられている。先ほどの龍華殿とは全く印象を異にする建物であるのは、建設時期の違いからであろうか?

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泉涌寺 雲龍院 書院の角窓は”迷いの窓”とよく言われるが・・・

 霊明殿の先には書院がL字型に建てられ、その東側に広い苔地の庭園が広がる。丸く刈り込まれた植栽といくつかの石が一体化し、庭の中に点在している。北西の角には丸い手水鉢が置かれている。庭の正面に既に枯れた高木の幹が象徴的に立ち、その左手奥に土蔵造りのような背の高い建物がある。庭の右手は直線状に生垣によって区切られている。その手前には敷石が、瓦葺の小さな門までの間をつないでいる。この小さな門は、後山に祀られている後光厳、後円融両帝分骨所 後小松帝灰塚への入口なのだろうか?

 庫裏の台所には、走る大黒天尊像が安置されている。大きな袋を背負ったわらじ履きの大黒様は、長者然として佇んでいるのではなく、何か言葉を発しながら左足を一歩踏み出しているようにも見える。

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泉涌寺 雲龍院 庭園の隅に置かれた手水

「泉涌寺 雲龍院 その2」 の地図





泉涌寺 雲龍院 その2 のMarker List

No.名称緯度経度
01  泉涌寺 雲龍院 表門 34.9772135.7798
02  泉涌寺 雲龍院 龍華殿 34.9771135.7801
03  泉涌寺 雲龍院 霊明殿 34.9769135.7802
04  泉涌寺 雲龍院 山門 34.9773135.7799
05  泉涌寺 雲龍院 庫裏 34.9772135.7803
06  泉涌寺 雲龍院 書院 34.9771135.7804
07  泉涌寺 雲龍院 書院庭園 34.9769135.7805
08  泉涌寺 仏殿 34.978135.7803
09  泉涌寺 舎利殿 34.9779135.7806
10  泉涌寺 本坊 御座所 34.9779135.7812
11   泉涌寺 本坊 霊明殿 34.9776135.7809
12  泉涌寺 月輪陵 後月輪陵 34.9772135.7819
13  泉涌寺 浴室 34.9779135.7799
14  泉涌寺 泉涌水屋形 34.9778135.7801

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