東福寺 光明院
東福寺 光明院(こうみょういん) 2008年12月22日訪問
東福寺方丈を出て、重森三玲の庭園のある光明院に向かう。既に15時を過ぎているので、日没閉山にならないうちに着くように道を急ぐ。光明院は、室町時代の明徳2年(1391)金山明昶の開創。明昶は正平4年(1349)生まれで、東福寺第70世住持を務め、但馬の極楽寺などを創建している。応永20年(1413)没。
東福寺方丈の繰り返しになるが、昭和14年(1939)三玲は、東福寺方丈の「八相の庭」とこの光明院の「波心庭」、そして開山堂庭園と塔頭・芬陀院の庭園の復元を手がけている。修復復元は除き、新作となった「八相の庭」と「波心庭」の趣の違いに戸惑いを感じる。特に方丈南庭と同時期に、全く異なった波心庭の構想を纏めていたこととなる。この違いは、京都五山の方丈庭園とその塔頭庭園の違いとともに、与えられた立地的な条件の違いもあっただろう。洗玉澗に面しているものの、方丈は禅宗の伝統的な伽藍配置の中心部分に位置している。そのため方丈を中心に4つの平面的な庭園が展開している。そして、これらの庭園群を巡回することで拝観者は仏教の教えや作庭者のコンセプトに触れることができる。これが設計の基本条件となっている。
これに対して光明寺は本堂、書院、茶室などの建物が雁行するように建てられている。そして庭園が本堂の東側の斜面に向かって開けている。このような立地条件において、正面性を重視した庭でなく、雁行する建物の縁側を巡りながら見え方の変化を楽しむ庭を目指している。また小振りであるが東山の斜面を活かすため、自然の姿を活かした洲浜を中心とした枯山水をテーマとしている。すなわち、庭の中央の白砂を海と見立て、苔地が白砂に接する部分に小石を配することで、その波しぶきを表現している。庭の名となった波心は禅語の「無雲生嶺上。有月落波心(雲の嶺上に生ずる無く、月の波心に落つる有り)」に由来している。
この庭には三尊式の石組を本堂正面東部など三箇所に配置している。三玲は、
「各三尊石組の斜線や直線、さらには横の線に至るまでを有機的に結び、その線上にたくさんの石を並べて、各三尊石組から光明の線を見せる構成とした」
と記している。これらは拝観者が座る場所を考えて造られているだけでなく、拝観者と共に移ろう視座をも計算し、どのようにシークエンスを組み上げているかをも含めて、庭を設計していることが、この言葉から伝わってくる。
また三尊石から無量光が発する様を、直線上に石を配置することで暗示するという手法も試みている。これは絵画の構成でよく見られる手法でもある。
背後の斜面には、日本各地から移植したサツキとツツジの大刈込が覆う。これは雲紋を表している。そして高台には昭和38年(1963)に茶室・蘿月庵がと露地が造られている。蘿月庵は東山から昇る月が発する場所とも見える。また、この時に庫裡の前にある小さいながら雲嶺庭を追加している。雲嶺と波心が完結している。
嶺の上に雲が懸からなければ、白砂の砂紋に月の姿が見えるという、日本の自然観の表現という古典的なテーマを用いている。ここで安易に池を築き水を張ることなく、新しい表現方法で平安時代の池泉庭園を再現しようとしている。これは作庭家としての創作活動の前にあった、庭園史研究家としての実績が結実したと思われる。日本各地の名庭を実測し分析した経験から、日本古来の風景の再現は、海洋風景の創作にあることに辿りついている。そして視線の移動を石組の配置によって能動的に行おうとする試みなど、単なるアイストップの配置に留まっていない。この庭は、日本人にとって故郷に似た原風景を強く感じさせる。その上で優しさと心地よさを兼ね備えていることが、この庭の奇跡であった。
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