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東福寺 開山堂・普門院 その3



東福寺 開山堂・普門院(かいざんどう・ふもんいん)その3 2008年12月22日訪問

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東福寺 開山堂・普門院 開山堂庭園 鶴島と亀島

 かげまるくん行状集記 に掲載されている本朝寺塔記には京都十刹としての普門寺についての記述がある。
 東福寺の項でも触れたように、東福寺創設には長い年月を要している。九条道家が京都最大の大伽藍の造営に着手したのが、嘉禎2年(1236)であり、完成に至ったのが実に建長7年(1255)のことであった。奈良における最大の寺院・東大寺と最も隆盛を極めた寺院・興福寺になぞらえて計画された寺院であったため、東大寺と興福寺から一字づつを取り、東福寺と名付けられた。上記の普門寺はこの建立に先立つ寛元4年(1246)創設されている。建立当初は普門院と称され、普門寺となり京都十刹に列せられたのは室町時代に入ってからである。九条道家によって東福寺創建とともに普門院が創設されたのは、やはり東福寺建設に長い時間を要したためであろう。招聘した聖一国師が、東福寺完成までの期間を住する寺院として、普門院は必要であった。この普門院は、現在の開山堂のある高台ではなく、月華門の東側の低地に東福寺の別院として造られたと考えられている。

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東福寺 開山堂・普門院 開山堂庭園 鶴島
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東福寺 開山堂・普門院 開山堂庭園 亀島 洞窟を持つ石組みが奇異さを感じさせる

 室町時代に入り康暦2年(1380)に準十刹として十刹第14位に列せられている。普門寺は十方住持制をとるべき十刹寺院にありながら、等持寺・臨川寺とともに度弟院寺院であることを特別に認められていた。五山制度下の寺院は基本的には法脈を問わず人材本位で住持を選任する十方住持制をとるのが原則であった。これに対して特定の法脈の禅僧が住持となる寺院を度弟院寺院と呼ばれていた。すなわち普門寺は聖一派のみが住持となる度弟院寺院があり、事実上の東福寺末寺となっていた。なお至徳3年(1386)には京都十刹の第6位となっている。

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東福寺 開山堂・普門院 開山堂からの眺め

 当初、東福寺一帯は応仁の乱(応仁元年(1467)~文明9年(1477))の戦火を最小限に食い止め、光明峰寺が焼失しただけであった。しかし乱の激化に伴い、ついに文明2年(1470)冬に海蔵院をはじめとした東福寺塔頭が焼失している。
かげまるくん行状集記 の普門寺の記述によると、応仁の乱の後も普門寺は存続していたこと分かる。普門寺は明智光秀による白銀100枚の寄附を受け、諸堂を修理したこと、光秀が敗死した後に祀られたことが記録に残されている。少なくとも天正年間(1573~92)までは、その存在が確認されているものの、いつしか廃絶し、名称のみが東福寺常楽庵の客殿・庫裏・塔司寮に伝えられている。

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東福寺 開山堂・普門院 開山堂庭園
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東福寺 開山堂・普門院

 既に東福寺 開山堂・普門院その3で書いたように、常楽庵の堂宇は文政2年(1819)火災により焼失している。その後、一条忠良によって文政6年(1823)から同7年(1824)までに開山堂・昭堂、塔司寮、庫裏など整えられ、文政9年(1826)には、ほぼ現在の姿となっている。

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東福寺 開山堂・普門院
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東福寺 開山堂・普門院 左に普門院、右に開山堂

 開山堂は正面柱間八間、内部は禅式瓦敷(四半敷)、祀堂は床高で開山国師像を安置している。上層の伝衣閣は正面三間、内部左右いっぱいに壇を設け、中央に阿弥陀、右に薬師、左に布袋像を祀っている。この珍しい楼閣建築・伝衣閣は、鹿苑寺の金閣、慈照寺の銀閣、西本願寺の飛雲閣そして大徳寺塔頭芳春院の呑湖閣と並び京の五閣とされている。
かつての普門寺の名称を引き継ぐ普門院は、開山堂の西に位置する寝殿造風の建物で、内部は三室に仕切られている。襖絵は花鳥草花や唐人物を主題とし、各派の競作によって74面が描かれている。

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東福寺 開山堂・普門院 開山堂庭園

 開山堂庭園とされている庭は、江戸時代初期から中期に作庭されたと考えられている。このことは、文政2年(1819)の焼失以前から、この地には東側斜面を正面とした庭園があったこととなる。元々は西側に向けて建てられた火災前の常楽庵の楼門を潜った先に広がる庭園であったのかもしれない。そして西側に普門院が建設されたことで、この建物の前庭となるように改修されたのではないだろうか。そして「重森三玲 庭園の全貌」(学芸出版社刊 2009年)の著者である中田勝康氏の公式HPに記しているように、中央部の参道が明治に入ってから造られたことにより、今度は開山堂。参道・楼門をつなぐ南北軸のイメージが強化されることとなる。 この庭も重森三玲が昭和14年(1939)に手を入れている。昭和9年(1934)室戸台風によって京都の多くの庭園が荒廃した。しかし復元修理のための記録保存がなく、困難を極めた。これが「日本庭園史図鑑」(全26巻 有光社 1939年刊)などの実測につながっていく。

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東福寺 開山堂・普門院

 Googlemapで開山堂庭園を見ると、その構成は良く分かる。東側の山裾から下ってきた斜面は、中央の参道で既に平地となっている。その続きの空間は白砂で敷き詰められている。庭の南側に築かれた亀島と鶴島は、山裾から続く庭園の一部分として白砂の中に侵食している。
 普門院側から庭を眺めると、一面に広がる大海を表現した白砂の中に亀島と鶴島が浮かぶ。白砂には南北方向に流れる砂紋ではなく、格子状の砂紋が施されている。これは昭和14年(1939)に行われた修繕の際に行われた重森の創作だろうか?大海の具象的な表現ではなく、東福寺方丈の「井田の庭」や「市松の庭」に通じる無限的な繰り返しを感じさせる抽象表現が見られる。

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東福寺 開山堂・普門院

 この格子状の海に浮かぶ2つの島の背景には、東山から続く斜面とそこに配された石組みと丸く刈り込んだ植栽が見える。それがまた抽象と具象の対比となっている。参道を歩くと気が付くが、山裾から続く庭には小さいながらも池泉が造られ、無数の石橋が渡されている。この開山堂庭園もまた、智積院庭園知恩院方丈庭園清水寺成就院庭園などの東山に面した庭園との類似性を持っている。これらの庭との違いとしては、斜面の終わりから堂宇の軒先まで距離が長く、この部分に白砂を敷き詰めたことにある。本来は東山の豊富な湧水を生かした池泉式回遊庭園と成り得る立地に、わざわざ枯山水式庭園を築いたようなイメージが残る。

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東福寺 開山堂・普門院

 最後に鶴島と亀島に注目する。鶴島には2つの石を立てることにより、鶴が羽を伸ばし飛び立つ姿を作り出している。これに対して亀島は、大きな樹木の下に重量感溢れる石を配し、じっと蹲っている亀を表現している。この亀島に洞窟型の石を用いることで、東の海上にある仙人の住む蓬莱を表現したのだろうか。

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東福寺 開山堂・普門院

「東福寺 開山堂・普門院 その3」 の地図


大きな地図



東福寺 開山堂・普門院 その3 のMarker List

No. 名称 緯度 経度
 東福寺 開山堂・普門堂 34.9782 135.7737
01  東福寺 方丈 34.977 135.774
02  東福寺 同聚院 34.9785 135.7724
03  東福寺 霊雲院 34.9783 135.7717
04  東福寺 一華院 34.9779 135.7726
05  東福寺 大機院 34.9784 135.7731
06  東福寺 月華門 34.9776 135.773
07  東福寺 臥雲橋 34.9774 135.7728
08  東福寺 天得院 34.9767 135.7723
09  東福寺 仏殿 34.9763 135.7737
10  東福寺 洗玉澗 34.9773 135.7733
11  東福寺 通天橋 34.9772 135.7736

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