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妙心寺 その3

臨済宗妙心寺派大本山 正法山 妙心寺(みょうしんじ) その3  2009年1月12日訪問

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妙心寺 大方丈南庭

 妙心寺 その2では、京都五山十刹を中心に臨済宗寺院の創建時期についてまとめてみた。亀山法皇が南禅寺、後醍醐天皇が臨川寺、後宇多天皇が龍翔寺、そして花園法皇が妙心寺を創建したことが分かる。この項では、持明院統と大覚寺統の成立から両統迭立を経て南北朝時代に入っていく経緯と花園法皇による妙心寺の創建について見ていくこととする。

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妙心寺 大方丈 唐門

 持明院統の花園天皇は文保2年(1318)大覚寺統の後宇多天皇の第2皇子(後醍醐天皇)に譲位して上皇となり、この地にあった離宮 萩原殿で暮らしていた。
 持明院統と大覚寺統については、既に大覚寺の項でも触れている。花園天皇の曽祖父にあたる後嵯峨天皇が、自らの院政を少しでも長く継続するために、持明院統と大覚寺統の両統迭立を生み出している。 後嵯峨天皇は、寛元4年(1246)わずか在位4年で、4歳の久仁親王(後深草天皇)に譲位し、院政を開始。そして、正嘉2年(1258)後深草天皇の同母弟で10歳の恒仁親王(亀山天皇)を皇太子とし、翌正元元年(1259)後深草天皇から恒仁親王に譲位を促している。この後深草天皇の皇統が持明院統に、亀山天皇の皇統が大覚寺統となっている。さらに文永5年(1268)には後深草天皇の第2皇子煕仁親王をさしおいて、亀山天皇の第2皇子世仁親王(後宇多天皇)を皇太子としている。

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妙心寺 大方丈 唐門

 後嵯峨上皇が、2つの皇統を作り出し両統迭立を行うことを可能にした背景には、後嵯峨院政と鎌倉幕府を掌握して執権政治を確立した北条氏との間での連携を見逃すことができない。これによって政治の安定が図られた時期でもあったともいえる。後嵯峨上皇は文永5年(1268)10月に出家して法皇となり、大覚寺に移る。文永9年(1272)に崩御している。そして遺言状には後継者を指名するのではなく、次代の治天の指名は鎌倉幕府の意向に従うようにという遺志だけが示された。このことによって後深草天皇と亀山天皇はそれぞれ次代の治天となることを望んで争い、裁定は幕府に持ち込まれた。幕府は亀山天皇を治天に指名した。
 亀山天皇はしばらく在位のまま政務を執り、文永11年(1274)に8歳の皇太子・世仁親王(後宇多天皇)に譲位している。この時期の亀山上皇は「弘安の徳政」を行うとともに、幕府を主導していた安達泰盛と連携をとっていたと考えられている。しかし弘安8年(1285)に生じた霜月騒動により、平頼綱らによって泰盛とその与党が殺害・追放され、幕府の政策が転換することとなる。この影響が朝廷にも及び、亀山天皇の院政の基盤は必ずしも強固なものではなくなった。そして上皇に倒幕の噂が立つと、弘安10年(1287)幕府は治天と天皇の交替を要求し、皇太子・煕仁親王が践祚して伏見天皇となり、後深草上皇による院政が開始された。このように両統が入れ替わる2度目も幕府の裁定によっている。
 そして鎌倉幕府が両統迭立を公式な方針としたのは、後二条天皇が即位した時であり、後醍醐天皇の建武の親政によって幕府が滅亡するまで、この方針を堅持した。

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妙心寺 大方丈南庭

 上記の経緯をまとめると下記のようになる。

88代 後嵯峨天皇 仁治 3年(1242)~寛元 4年(1246)
89代 後深草天皇 寛元 4年(1246)~正元 元年(1259)持明院統
90代 亀山天皇  正元 元年(1259)~文永11年(1274)大覚寺統
91代 後宇多天皇 文永11年(1274)~弘安10年(1287)大覚寺統
92代 伏見天皇  弘安10年(1287)~永仁 6年(1298)持明院統
93代 後伏見天皇 永仁 6年(1298)~正安 3年(1301)持明院統
94代 後二条天皇 正安 3年(1301)~徳治 3年(1308)大覚寺統
95代 花園天皇  延慶 元年(1308)~文保 2年(1318)持明院統
96代 後醍醐天皇 文保 2年(1318)~延元 4年(1339)大覚寺統

 両統迭立の方針に従い、大覚寺統の傍流から出た後醍醐天皇が即位したのは文保2年(1318)
のことであった。皇位継承を巡り大覚寺統嫡流派と持明院統派の双方と対立していた後醍醐天皇は、自己の政策を安定して進めるためにも両派の排除及びこれを支持する鎌倉幕府の打倒をひそかに目指していた。しかし討幕計画は、正中元年(1324)の正中の変、元弘元年(1331)の元弘の乱と二度までも発覚する。そして元弘の乱で後醍醐天皇は捕らわれ、承久の乱の仲恭天皇と同様に、廃位となり隠岐島に配流される。その上で鎌倉幕府は持明院統の光厳天皇を即位させた。しかし元弘3年(1333)後醍醐天皇は隠岐を脱出し、伯耆国で名和長年に迎えられ船上山で倒幕の兵を挙げる。新田義貞が鎌倉を攻め、北条高時ら北条氏一族を滅ぼし鎌倉幕府が滅亡すると後醍醐天皇の建武の親政が始まる。後醍醐天皇は光厳天皇の即位と正慶の元号を廃止している。そして重祚ではなく、文保2年(1318)から在位を継続してきたとしている。明治44年(1911)の明治天皇の裁断によって南朝が正統とされたため、光厳天皇は97代天皇ではなく、北朝初代天皇とされている。 後醍醐天皇は恒良親王を皇太子に立てたことにより、皇統が大覚寺統に統一されたかに見えた。持明院統の花園上皇が落飾して法皇となったのは、建武2年(1335)のことであったから、皇位が大覚寺統に統一された時期のことである。上皇は、自らを含めた持明院統の政治的復権がかなえられないことを知ったのであろう。笠原秀彦著「歴代天皇総覧 皇位はどう継承されたか」(中央公論新社 2001年刊)によると、天皇は幼き頃より毎朝読経、念仏を欠かすことがなく、清廉で文人肌の人柄であったようだ。京極為兼を師と仰ぎ、歌道にも力を注ぎ、伏見院やその中宮の永福門院ともども京極派の中核をなしていた。後醍醐天皇に譲位後は後の光厳天皇となる量仁親王の養育と禅宗信仰に力を注いだ。そのような人柄からも政治的な活動をそれ程は好まなかったのかもしれない。

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妙心寺 大方丈南庭と唐門

 花園法皇は自らの萩原殿を禅寺に改めることを発願した。法皇の禅の師は大徳寺開山の宗峰妙超(大燈国師)であった。建武4年(1337)宗峰の臨終間近に花園法皇が、「師の亡き後、自分は誰に法を問えばよいか」と尋ねた。宗峰は高弟の関山慧玄を推挙し、正法山妙心寺の山号寺号を命名した。釈尊が嗣法の弟子・摩訶迦葉に向かって述べた正法眼蔵涅槃妙心という句から取ったものである。妙心寺の公式HPでは宗峰によって山号寺号が定められ、宗峰が亡くなった建武4年(1337)を開創の年としている。 関山慧玄は建治3年(1277)信濃国の高梨氏に生まれる。嘉元4年(1307)建長寺に入り南浦紹明に師事、慧眼の法名を授かる。その後帰郷するが、建長寺開山・蘭渓道隆五十年忌出席のため再び建長寺に参じた時に宗峰妙超に出会う。慧眼は大徳寺で宗峰に師事し、嘉暦4年(1329)宗峰より関山の号が与えられ、慧玄と改名した。その後、後醍醐天皇に法を説くなどしたが、美濃の伊深に草庵を結んで隠棲していた。翌年の暦応元年(1338)花園法皇は玉鳳院を建て、関山慧玄禅師に参禅される。そして宗峰より推挙された関山慧玄を開山として暦応5年(1342)妙心寺を創建した。
 関山慧玄の禅風は厳格で、その生活は質素を窮めたという。慧玄には他の高僧のような語録や生前に描かれた肖像もない。遺筆も唯一の法嗣である授翁宗弼に書き与えた印可状を除くとほとんど残されていない。そのためどのような人物であったか分からないところが多い。貞和4年(1348)花園法皇は52歳で崩御され、関山慧玄禅師も延文5年(1360)84歳で入寂すると、法嗣の授翁宗弼禅師が第2世住持となる。
 花園法皇は貞和4年(1348)花園萩原殿にて52歳で崩御。崩御の2日後、京都市東山区粟田口三条坊町の十樂院上陵に葬られた。
 後醍醐天皇の性急な改革の推進と朝令暮改を繰り返しに民意は離れて行き、建武の親政は2年半にして崩壊する。吉野に逃れた後醍醐天皇に代えて、延元元年(1336)足利尊氏は、持明院統の光明天皇を擁立する。そして光厳上皇が光明天皇と崇光天皇の二代に渡って院政を行い、治天の君として積極的に政務を展開した。しかし後醍醐天皇は自己の正統性を主張し南北朝時代へと入っていく。すなわち持明院統と大覚寺統は北朝と南朝という形で解消されずに続いていくこととなる。

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妙心寺 大方丈と南庭

 現在の京都五山十刹が制定されたのは、足利義満が相国寺を創建した時とされている。それまでも五山の決定及びその住持の任免権は足利将軍個人に帰するという慣例があったが、至徳3年(1386)義満は義堂周信・絶海中津らの意見を容れて五山制度の大改革を断行している。すなわち南禅寺を五山の上として全ての禅林の最高位とすることによって、自らが創建した相国寺を五山に加えることを可能にしている。さらに五山を京都と鎌倉に分けるとともに、京都十刹と鎌倉十刹も定めている。
 南禅寺の亀山法皇、臨川寺の後醍醐天皇そして龍翔寺の後宇多天皇、京都五山十刹で天皇家が創建したものは、全て大覚寺統によるものであることは意外であった。

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妙心寺 大方丈

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