琴きき橋跡
琴きき橋跡(ことききはしあと) 2009年11月29日訪問
一ノ井川の取水口にある一ノ井堰碑の前を過ぎると、すぐに府道29号宇多野嵐山山田線に合流する。ここから渡月小橋までは目と鼻の先である。 渡月小橋の南橋詰では、大正13年(1924)に建てられた三宅安兵衛遺志 西芳寺南へ二十町の道標に出会える。ここより嵯峨街道を南に2キロメートル余り下ると夢窓国師が建立した西芳寺に至るということである。そのまま渡月小橋を渡り中之島に入ると今度は渡月橋が始まる。
現在の渡月橋は昭和9年(1934)に完成した鉄筋コンクリート製である。橋の欄干が木造であるため木橋のようにも見える。もともとは、葛野大堰で記したように、秦氏の流れをくむ僧の道昌によって承和年間(834~48)に架橋されたのが始まりとされている。すなわち葛野大堰の修復を行ない、葛井寺を法輪寺に改め中興した頃に架橋されている。 また、現在の位置に橋を架けたのは角倉了以だとされる。了以が大堰川の開削に着手したのが、慶長11年(1606)の春で、わずか5カ月間で完成させている。この時期に現在の渡月橋の場所に新しい橋を架けたのであろう。安永9年(1780)に刊行された都名所図会には渡月橋について以下のように記している。
渡月橋は大井川にありて法輪寺へ渡る橋なり。一名は御幸橋、法輪寺橋ともいふ。
橋を渡りきると右京区に入る。この北橋詰には、先の西芳寺への道標と対になるように、大覚寺北十町の道標が建つ、これも大正13年(1924)に建てられた三宅安兵衛遺志の碑である。西面には、「南北両朝御媾和之旧蹟大覚寺 北十丁」とある。元中9年(1392)南北朝の和解が成立し、大覚寺において南朝最後の天皇である後亀山天皇から北朝の後小松天皇に三種の神器が引き継がれたことを思い浮かべて記したのであろう。西芳寺を中興した無窓国師は、後醍醐天皇の菩提を弔う寺院として天龍寺建立を足利尊氏に勧めている。この渡月橋の北と南に建てられた2つの碑には単なる名所を指し示すだけではなく、思いを南北朝時代に馳せさせるように仕組まれているともいえる。
この道標の東側に、琴きき橋跡の碑が建つ。この碑は比較的新しく、碑文から昭和55年(1980)に京都西ロータリークラブが国際ロータリー創立75周年を記念して建てたことが分かる。東面には「一筋に雲ゐを恋ふる琴の音に ひかれて来にけん望月の袖」という歌が記されていることからも小督哀話にまつわる碑であることが分かる。
高倉天皇の命を受けて小督を探しに来た北面の武士源仲国は、小督が応えることを期待して笛を吹く。微かに聞こえる琴の調べの方向に駒を進めると、果たして小督が隠れ住む粗末な小屋に辿り着く。琴きき橋跡の碑は、仲国が小督の琴の音を聞いた橋を現在の渡月橋として、この地に建てられたのであろう。もし仲国が法輪寺橋のたもとで聞いたとしたら、恐らく承和年間(834~48)に架橋されたとされる道昌の橋であっただろう。既にその地は特定できなくなっているので、この地に建てるしかないということだろうか。
なお、渡月橋の北橋詰から西に進み、最初の道を北に入った所に小督塚がある。
観光客を待つ人力車の呼び込みにより、琴の音など掻き消されるような喧騒の場となっている。
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