大徳寺 塔頭 その9
大徳寺 塔頭(だいとくじ たっちゅう)その9 2009年11月29日訪問
北派の塔頭その3に引き続き、北派の2つの塔頭を記す。
第142世月岑宗印は慶長8年(1603)に高桐院の南隣に正琳院を創建している。月岑宗印は、高桐院の開祖である玉甫紹琮と同じく、総見院を開創し天正寺の建立を手がけた古渓宗陳の法嗣である。第111世で三玄院の開祖である春屋宗園は、玉林院の塔頭開きを祝って贈った賀頌に、
「正琳禅院は養安老人が創建の地であり、多くの年月を経ずして立派な建築が竣工した」
と意味が記されている。
この養安老人は曲直瀬養安院法印正琳であり、正親町天皇、後陽成天皇の侍医にして徳川家康、秀忠親子にも仕えた医師である。天正12年(1584)豊臣秀吉に謁し、以後秀次に仕え文禄元年(1592)には近江国に250石を与えられている。同年、正親町上皇の病気の治療により法印に叙せられる。文禄4年(1595)には宇喜多秀家の妻の奇病を治癒し、秀吉よりその謝礼として朝鮮の役に得た書物数千巻を与えられる。慶長5年(1600)には後陽成天皇に薬を献じ、平癒を得た功で「養安院」の号を賜わる。
宗印に帰依した正琳は、自身の菩提所として正琳院を建立し、宗印を開山として迎えている。しかし慶長14年(1603)2月8日夜、大徳寺山内で火災が発生し、「新キ院」が焼失した記録が真珠庵文書等に残っている。これが正琳院であったと考えられている。開創から僅か6年目に焼失したことが分かる。この後の慶長16年(1611)、曲直瀬正琳は47歳で死去している。
この正琳院を再建したのは月岑宗印であった。火事の時に道具や衣服や袈裟衣の全てを失った上、有力な檀那や知行を持たなかったため、その復興には宗印自らが衣食を節約して行なわれてきた。この火災後間もない時期に正琳院から玉林院に寺号を改めている。すなわち「琳」の字を「玉」と「林」に分解している。慶長17年(1612)にはかなり再建が進んでいたようだが、元和7年(1621)には本堂と玄関及び庫裏は造作の一部を残してほぼ完成しており、小書院、小庫裏、小廊下、湯殿、雪隠及び鐘楼は未着手にもかかわらず、経費の見積りは行なわれていたようだ。
月岑宗印は永禄3年(1560)京都に生まれている。俗姓は大森氏。前述のように古渓宗陳に嗣法し、慶長3年(1598)に大徳寺に出世し第142世となる。慶長5年(1600)再任開堂する。元和6年(1620)後水尾天皇より大興円光禅師の諡号を賜わる。元和8年(1622)玉林院の再建途上で示寂し、玉林院に塔される。
玉林院は北派独住で護持されてきた。寛文年間(1661~73)第189世仙渓宗春が住院の時に筑後久留米の有馬氏が檀越となっている。また鴻池了瑛こと4代目鴻池善右衛門は、寛保2年(1742)南明庵と付属する茶室蓑庵と霞床席を建立している。南明庵は鴻池家の先祖である山中鹿之助の位牌堂で、一重入母屋造、杮葺で重要文化財に指定されている。また茶室の蓑庵と霞床席は附蓑庵露地で重要文化財に指定されている。
現在の玉林院には、本堂と玄関が残されている。本堂は桁行11間半、梁行7間半と大建築になっている。そして三玄院本堂と同じく室中の西側に中衣鉢間、中檀那間、西衣鉢間そして西檀那間の4室が造られ、座敷の4周に広縁を巡らしている。入母屋造桟瓦葺の本堂は重要文化財に指定されている。小書院と小庫裏は宗印の寂後に造立され、幕末の古図に記されているものの現存していない。
後に高桐院の南西隅に移されるが廃壊している。延宝4年(1676)肥後の細川綱利が第235世天岸宗玄のために、高桐院東に移して創建している。寺観は旧倍の規模となる。その後、肥後隅本の妙解寺宿坊となり、玉林院子庵として北派に属してきた。
慶長13年(1608)加賀百万石の祖・前田利家の夫人まつが玉室宗珀を開祖として建立した塔頭。松子の法号・芳春院殿花巖宗富大禅宗定尼から芳春院と名付けられ前田家の菩提寺となっている。
開山の玉室宗珀は元亀3年(1572)京に生まれている。俗姓は園部氏で父は常林、母は妙栄であった。また大徳寺第111世の春屋宗園とは俗縁とされている。玉室は西加茂の正伝寺の龍珠軒に訪ねている。その後、春屋の大徳寺帰山に従い、剃髪受具し遂に印加される。これは慶長3年(1598)の三玄院開山の時のことであったかもしれない。そして慶長12年(1607)2月19日に出世し第147世となるが、住山3日にして退く。そして上記の通り慶長13年(1608)芳春院を開山し、大源庵を開創する。慶長16年(1601)春屋宗園の示寂に伴い、三玄院を任される。
加賀前田家の外護を得る芳春院は、元和元年(1615)の大徳寺所領目録によると、80石の高を持ち、玉室宗珀が住持していたことが分かる。元和3年(1617)の春に、玉室は横井等怡などの支援によって芳春院の北隅に呑湖閣を設け、春屋宗園の像を安置し昭堂としている。呑湖閣の前には飽雲池が造られ、打月橋と名付けられた橋廊が架けられている。池の周囲には奇岩が配され珍しい木々が植えられている。また池には後水尾天皇が下賜した一つがいの鵞鳥が放されていたされている。
後水尾天皇が芳春院に鵞鳥を下賜した事実を確認することはできないが、芳春院が加賀前田家と朝廷文化を結びつける場となっていったことは確かである。慶長6年(1601)後に第2代藩主となる前田利常は、徳川秀忠と継室江の次女である珠姫を正室に迎えている。珠姫はまだ3歳であり、徳川幕府と外様有力大名との間の政略結婚であった。珠姫は、後に京極忠高正室となる初姫や後水尾天皇の中宮東福門院和子の血のつながった姉にあたる。そして慶長19年(1614)徳川和子の入内宣旨が出される。この先に、大坂の陣、大御所家康の死去、後陽成院の崩御、そしておよつ御寮人事件が発生し、入内はどんどん遅れて行くが、元和6年(1620)後水尾天皇の女御として和子は入内している。
珠姫も前田利常との間には、慶長18年(1613)に長女の亀鶴姫(後に森忠広室)を始めとして、長男光高(第3代藩主)、次女小媛、次男利次(越中富山藩初代藩主)、三男利治(加賀大聖寺藩初代藩主)、三女満姫(後に浅野光晟室)、四女富姫を元和7年(1621)に出産している。非常に仲の良い夫婦であったが、元和8年(1622)に五女の夏姫を出産後に体調を崩し病没している。享年24。
四女の富姫は、寛永19年(1642)八条宮智忠親王の正室となる。このことは前田家と公家との結びつきを強くし、多くの公家、武家そして茶人が芳春院に集うこととなった。とりわけ後水尾上皇や片桐石州は、その中でも中心的な人物となり、寛永文化の発信源のひとつとなった。
寛政11年(1799)に刊行された都林泉名勝図会にも高林菴は下記のように記されている。
高林菴〔芳春の寮舎、芳春の裡にあり、玉舟和尚塔所。
慶長中立。其後寛永中片桐石見守貞昌再建、貞昌は和州小泉邑領一万石〕
客殿中ノ間 山水 探幽筆
檀那ノ間 人物 同 筆
礼ノ間 山水 安信筆
衣躰ノ間 山水 益信筆
大書院 山水 常信筆
玄妙ノ額 後西院帝宸書
大源庵:元和8年(1622)近江の浅井氏の出とされる横井氏正栄尼が玉室宗珀のために大徳寺北の上野村(北区紫竹牛若町)東の源義朝の別荘があったという跡地に創建した退居坊。あるいは正栄尼が先に亡くなった2人の子供の冥福を祈るために建てたともいわれている。玉室宗珀は大源庵を法嗣の第190世天室宗竺に付与したため、大源庵第2世の天室を開祖とする説もある。その後、蜂須賀家が檀越となる。芳春院六寮舎の一つで北派独住により護持されてきた。なお大源庵の旧地には、源義経産湯井遺址の碑が建つ。碑文には、この地に源義朝の別業があったこと、玉室宗珀が大源庵を開きその後に荒廃したことも記されている。
松月軒:寛永年間(1624~44)に始まった寮舎。西加茂の正伝寺裏に旧地が在リ、澤庵宗彭の弟子の説渓演首座が聚光院の裏に移す。説渓演首座の没後、第211世で芳春院第3世の一渓宗什が芳春院門内の左に移建する。これ以降、芳春院住持の退休の坊となる。文化5年(1808)東海寺輪番を終えた芳春院13世宙宝宗宇が退居している。北派の寮舎として護持されるも、明治維新後に芳春院に統合される。
瑞源院:龍光院の開山となった江月宗玩の法嗣で第176世安室宗閑が開祖となる寮舎。福山城主の水野勝成が父の忠重のために大光院の西に創建し、忠重の法名を院号とし江月宗玩に開祖を請う。江月が安室宗閑に付し塔頭としている。そのためか安室の伝では瑞源院二世となっている。元禄11年(1698)水野氏が断絶したため、塔頭を辞している。北派独住で護持されてきたが、明治の廃仏棄釈で廃寺となる。紫野高校北門横に瑞源院趾の石標が残る。なお寛政11年(1799)に刊行された都林泉名勝図会では、瑞源院を下記のように芳春院の寮舎としている。
瑞源院〔芳春院の寮舎、大光の西にあり。江月を開祖とす。
水野日向守源勝成所造、備後福山の城主なり〕
客殿中ノ間 墨絵人物 等益筆
礼ノ間 山水 同筆
檀那ノ間 耕作 同筆
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