松尾大社 その3
松尾大社(まつおたいしゃ)その3 2009年12月9日訪問
大宝元年(701)秦都理は松尾社の社殿を営んでいる。その後数度の火事にあっているが、弘安8年(1285)3月の火事により、社中ことごとく焼亡している。現在、重要文化財に指定されている現在の本殿は天文11年(1542)の建造で、桁行三間、梁行四間の一重檜皮葺の両流造である。箱棟の棟端が唐破風形になっているのは他に類例がなく、柱や長押などの直線と屋根の曲線との調和、木部・桧皮の色と柱間の壁の白色とが交錯して醸し出す色彩の美しさ、向拝の斗組や蟇股、手挟などの優れた彫刻意匠に室町期の特色を見ることができる。なお松尾大社の公式HPによると応永4年(1397)に建造に着手し、天文11年(1542)に大修理を施したとしている。そのため本殿の一部には、応永30年(1423)の古材が用いられている。校倉造の宝庫、釣殿、中門、回廊、拝殿そして楼門は江戸時代初期の建築。境内末社は本殿南側境内に、衣手社、一挙社、金刀比羅社、祖霊社の四社、神饌所裏の御手洗川岸に、四大神社、三宮社、滝御前社の三社がある。
現在の松尾大社の氏子区域は等持院(北区)、嵯峨・嵯峨野・川岡・梅津・西京極(右京区)、嵐山・松尾・桂・大枝中山(西京区)、西七条・朱雀・梅小路・塩小路・御所ノ内(下京区)、唐橋・吉祥院(南区)と京都市街地の実に三分の一を占め、戸数4万戸と称されている。
祭礼は貞観年間(859~77)より執行されてきたとされている。四月上申日(現在の4月2日)の勅使参向の例祭。四月下卯日に出御、五月上酉日に還御の神輿渡御祭が行われている。これは松尾祭ともよばれている。昭和36年(1961)より、4月20日以後の第一日曜日に出御、21日目の日曜日に還御となっている。偶然ではあるが、この項を記している4月21日が平成25年(2013)の松尾祭の出御の日となっていたが、強風のため桂川船渡御は中止となったようだ。なお、二之鳥居の左手に見かけた舟が、舟渡御に使われる駕輿丁船である。
出御祭には松尾七社(大宮社、月読社、櫟谷社、宗像社、三宮社、衣手社、四之社)の神輿(月読社は唐櫃)が、ご本殿のご分霊を受けて拝殿を三回廻った後、順次社頭を出発し松尾・桂の里を通って、桂離宮の東北方、すなわち現七条通桂大橋の上流で桂川を船で渡り、左岸堤防下で七社勢揃いし、古例の団子神饌を献じた後、四基の神輿と唐櫃とは西七条御旅所(下京区)に、二基の神輿は川勝寺と郡(右京区)の末社に至り、そこに駐輦される。
還幸祭には三御旅所に駐輦されていた神輿と月読社の唐櫃とが、西寺跡の旭の杜に集合し、ここで古例による西の庄の粽の御供、赤飯座の特殊神饌をお供えして祭典をした後、列を整えて途中朱雀御旅所に立ち寄り、ここでも祭典、次いで七条通りを西に進み、西京極、川勝寺、郡、梅津の旧街道を経て、松尾大橋を渡り本社に還御される。還幸祭は神輿渡御祭の中心で、今でも氏子の中でも「おかえり」と言えば、この祭を意味する。本殿、楼門、社殿、各御旅所の本殿、神輿から供奉神職の冠・烏帽子に至るまで葵と桂で飾るため、古くから葵祭とも言われてきた。賀茂両社の葵祭は有名であるが、秦氏との関係の深い松尾大社や伏見稲荷大社にも同様の伝統が存在している。
この還幸祭には、いずれも吉祥院地区から二組の稚児が榊御面の役を奉仕する例で、男女の面をつけた榊の大枝を奉持して先導役を務める。また還幸祭には下津林地区から選ばれた稚児が松尾使いとして奉仕する。
旧暦の6月23日(7月23日)に御田植祭、9月1日に六斎念仏と五穀豊穣を祈り神事角力が奉納される八朔祭が行われている。
御田植祭は昭和49年(1974)からは毎年7月第3日曜日に執り行われるようになっている。古くからの神事で、文献上では室町時代の永和2年(1376)の松尾社年中神事次第や文明元年(1469)の記録にも御田祭が記されている。江戸時代初期の寛永年間(1624~45)の文書によると、下津林・上山田(嵐山)・惣市(松尾)の3村から植女が一人ずつ出て奉仕し、その服装は、紗を張った「かいばり(内掛)」を着て金銀で飾られた花笠をかぶり、紅白ちりめんのたすきを掛け、額には葵の形を白粉をつけ髪に垂らして花櫛を挿し元結を水引で結んでいた。
また、この3人の植女が壮夫・腰元二人を従えて、ご本殿の祭儀に参列し、神職から早苗を受け、それから斎庭に出て、壮夫の肩に乗り先駆の素袍二人・鍬持ち二人、その他を従えて拝殿の周りを3度回ることになっている。その後に持っていた苗を撤布すると、見物人たちは競ってこれを取って持ち帰り、田の虫除けにしたと伝えられている。
八朔とは、旧暦の8月1日(朔日)の事。この時期に台風や病害虫を被る事が多いため、五穀豊穣、家内安全を祈る祭りが明治18年(1885)より執り行われてきた。以前は9月1日に行われたが、この祭も昭和51年(1976)以降、9月の第1日曜日に行われるようになった。日曜日でないと氏子、特に若い人が集まりづらい状況になったのだろう。
八朔には、「田の実りをお供えする」と言う意味と、「稲穂の豊穣を祈願する」という二つの意味合いがあり、室町時代の一条兼良の公事根源、江戸時代の黒川道祐の日次紀事などでは、旧暦の8月頃になると早稲の穂が豊かに実るので、農民の間にはその初穂を貴人、恩人に送る風習が古くからあったことが分かっている。その紀元についても、鎌倉時代の後深草天皇の建長の頃か、後嵯峨天皇の頃か定かではないと一条兼良は紹介している。いずれにしても民間儀礼の一部として農民の農耕儀礼に発したものが、次第に武家から公家へと浸透していったようだ。
江戸時代に入り、徳川家康が天正18年(1590)8月1日に江戸城に入城した日として、幕府は正月に次ぐ祝日としていた。一方朝廷においても、後水尾院當時年中行事に八朔が恒例の行事として紹介されており、江戸時代に至っては貴賎の別なく盛大に行われていた。
平安時代に空也上人が初めて奏したと言い伝えられている六斎念仏踊が八朔祭に奉納される。民衆に信仰を広めるために鉦や太鼓をたたいて踊躍念仏を始めたのが起こりとされ、六斎日(毎月8、14、15、23、29、30の六日)に街中で鉦や太鼓を打ちながら念仏を唱え踊ったことから六斎念仏と称されるようになった。後に風流化し能や歌舞伎などを取り入れ芸能化した芸能系六斎と念仏踊を主とする念仏六斎系の二つの系統に分かれて現在に伝わっている。京都の六斎念仏は昭和58年(1983)に国の重要無形民俗文化財に指定されている。
八朔相撲と称する神事相撲も起源は定かではない。社伝によると鎌倉時代から今日まで続けられているとしている。正確な記録としては江戸時代初期の神主であった秦相宥が編纂した松尾年中行事次第記巻中に八朔相撲に関する記述が残されている。
古来より、卯の字は甘酒、酉の字は酒壺を意味していると言われ、酒造りは「卯の日」にはじめ、「酉の日」に完了する慣わしがある。そのため11月上旬に上卯祭、4月中酉に中酉祭が行われている。稲刈りも終わり新米ができる秋が酒造の始まる季節で、上卯祭は醸造安全祈願のお祭りである。全国の和洋酒に留まらず、味噌、醤油、酢等の醸造業はもとより、卸小売の人々も参集し、盛大に醸造安全を祈願し、守札としての大木札を受けて持ち帰り、各々の蔵に奉斎し、酒造りをはじめる慣わしとなっている。そして春を迎え、4月の中の酉の日には、醸造完了を感謝する中酉祭が執り行われる。
近世を通じて神職33家、神宮寺の社僧十数人に及んだとされている松尾社であったが、明治初年の廃仏毀釈により神宮寺が廃されている。そのため神宮寺の規模を含めて明らかになっていない。近代社格制度のもと、明治4年(1871年)に松尾神社として官幣大社に列格している。戦後は昭和23年(1948)に別表神社にとなっている。昭和25年(1950)に松尾大社に改称している。
別の項で触れるが、昭和49年(1974)重森三玲によって松尾大社の曲水の庭と上古の庭が完成している。三玲は松尾大社の作庭を終えた12月21日に発病し、翌50年(1975)3月12日喉頭癌で78歳の生涯を閉じている。そのため蓬莱の庭は三玲の構成図をもとに長男の完途によって同年5月に作られている。
昭和53年(1978)祖霊社が創建され、昭和55年(1980)楼門と築地塀が改修されている。昭和59年(1984)には清明館が竣工される。昭和61年(1986)神庫と神輿庫、そして授与所などが改修される。
平成に入ってからも平成6年(1994)大鳥居が竣工し、京都国立博物館より三神像が戻り、宝物館での一般公開が始まる。平成18年(2006)神饌田と御田植式が再興される。そして平成22年(2010)境内より17体の男女神像が新たに発見される。
宝物には古神像20体と古器物約20点がある。特に等身大彩色の男神坐像二躯と女神坐像一躯は平安期の作とされ、我国の神像の中でも最古のものとされている。いずれも重要文化財に指定されている。古文書は本社に1200余点、社家の東氏に552点が残されている。最も古い文書は寛平8年(898)の山田郷長解で、紙全体にわたり三四窠の葛野郡印が押されている。神域の古図面や綸旨、下知状、御教書、寄進状そして禁制など鎌倉期から室町期を中心とした多様な文書が残されている。特に丹波雀部庄の在地動向を伝える荘園資料は貴重である。他にも棟札15点もある。
楼門の手前にある鳥居の上部に柱と柱を結ぶ注連縄があり、それに榊の小枝を束ねたものが数多く垂れ下っている。これは脇勧請と称されるもので、榊の束数は平年12本、閏年13本を吊り下げるのが慣わしとなっている。鳥居の原始形式を示すもので、太古の昔、参道の両側に二本の木を植えて神を迎え、柱と柱の間に縄を張り、その年の月数だけの細縄を垂れて、月々の農作物の出来具合を占ったとされている。詳しい資料なども現存していないため、占いの方法等はほとんど分からなくなっている。占いによって月々の農作物などの吉凶を判断していた太古の風俗をそのまま伝えているため、民俗史学上も貴重な資料とされている。
一之鳥居より参道を進み、二之鳥居を潜ると楼門が目の前に現れる。楼門、拝殿そして本殿は一直線上に並ぶ。本殿の北側には校倉造の神庫が建てられているが、回廊を巡らしているため通常の拝観では本殿と共に見ることはできない。ただし現在では御本殿斎庭における特別参拝が行われているようだ。回廊の南北に北清門と南清門が設けられている。本殿の南側には衣手社、一挙社、金刀比羅社そして祖霊社が一列に並ぶ。祖霊社の先には伊勢神宮遥拝所がある。さらに神饌所裏の御手洗川岸に四大神社と三宮社そして滝御前社の三社がある。この三社へは北清門と神饌所を結ぶ回廊の下を潜る。岩座登拝道入口の道標が目印となっている。順路的には重森三玲の庭を鑑賞した後、岩座登拝道入口の前を過ぎ、宝物館と葵殿の裏側を進み、霊亀の滝と滝御前社を拝観するように設定されている。そして御手洗川岸を下り亀の井と四大神社・三宮社を経由して再び入口に戻ることとなる。
本殿北側の建物群は増築を繰り返したようで複雑な構成になっている。神饌所の北側には西側から葵殿と宝物殿、社務所と松興館、そして参集殿が三列に建てられている。そして参集殿には玄関と平成殿が付属している。重森三玲の曲水の庭と上古の庭は葵殿・宝物殿と社務所・松興館に挟まれた斜面に作庭されている。すなわち社務所庭園として造られたことが松尾大社の構成から分かる。もう一つの蓬莱の庭は、一之井川の東側に建てられた客殿と瑞翔殿から鑑賞するように作庭されている。
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