文書と写真・地図による「記憶」の再現

行願寺

天台宗 霊麀山 行願寺(ぎょうがんじ) 2009年12月10日訪問

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行願寺

 下御霊神社の鳥居を出て再び寺町通を下る。竹屋町通が寺町通に突き当たる場所に西面して行願寺がある。革堂ともよばれる天台宗の寺院で、山号は霊麀山。西国三十三所観音霊場第19番札所で、清水寺六波羅蜜寺、頂法寺(六角堂)、善峯寺などが名を連ねている。本尊の千手観音は行円が夢託によって得た賀茂神社の槻木を刻んだものであり、その余材は善峯寺の本尊に充てられたと伝えられている。
 初めは一条小川新町にあり、一条北辺堂とよばれた。現在でも小川通一条上ルあたりに革堂町、革堂仲之町、革堂西町などの町名が残るが、これらは一条北辺堂の名残である。「日本紀略」の永祚元年(989)8月13日の条に下記のような記述が残されている。

十三日辛酉。酉戌刻。大風。宮城門舎多以顛倒。
(中略)又鴨河堤所々流損。

 近畿地方を襲った台風により京都市内に大被害が出た記録である。その中に、賀茂上下社御殿並びに雑舎、石清水御殿東西廊、祇園天神堂とともに一條北邊堂舎が顛倒したことが記されている。これが一条北辺堂の初見とされている。そして寛弘元年(1004)12月11日、行円によって建立供養が行われたことが以下のように「日本紀略」に記されている。

十一日庚寅。月次祭。今日。一條北邊堂供養。
皮聖(行円)建立之

 同様に「百錬抄」にも以下の記述がある。

十二月十一日。皮聖供養一條北邊堂。行願寺是也。

 藤原行成が記した「権記」の寛弘元年12月11日の条に以下のように残されていることから。当時、能書家として三蹟の一人に数えられた行成が行願寺の寺額を書いたことが分かる。

十一日庚寅 皮聖寺額行願寺、送僧前一前

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行願寺
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行願寺

 行円は鎮西出身の平安時代中期の僧で、横川皮仙とよばれたことから、叡山横川に本拠を置いた聖であったと考えられている。行円は行願寺が建立されると、宗教活動の中心をここに移し、寛弘5年(1008)8月14日から10月3日までの48日間は阿弥陀如来の四十八願になぞらえた法界衆生逆修のための四十八講を修めている。引き続き10月4日からの5日間は釈迦講を行っている。
 また寛弘7年(1010)3月21日には法華経一千部、図絵三千余体の仏像を供養し、寛仁2年(1018)3月16日に一灯ずつを法華経の文字にあてた万灯会の第一日目としている。24日には上下成市して盛況であったことが記録されている。同年閏4月4日からの8日間と、さらに5月21日からも四部講が行われている。この2回の四部講に賢人右府とよばれた藤原実資が閏4月9日と5月26日に結縁参詣を行っている。藤原道長の子顕信が師と仰ぎ、寛弘9年(1012)に行願寺で剃髪入道している。このようなことより行円が貴賤を問わず多くの信者を集めたとされている。そして行願寺にも叡山横川の聖たちの市中における根城の一つとなっていたことが推測される。

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行願寺 本堂
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行願寺 本堂

 行円が皮聖とよばれる所以は「日本紀略」の寛弘2年(1005)5月3日の条に記されている。

三日庚戌。御読経終。
修行聖人行圓供養建立一條北邊堂
件聖人不寒熱。着鹿皮。號之皮聖人

 「日本歴史地名大系第27巻 京都市の地名」(平凡社 1979年初版第一刷)では、行円が願人となって建立した寺院であるため、行願寺という寺号になったと考えている。地名にも残る革堂も行円が常に鹿皮を身に着けていたことから名付けられている。

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行願寺

 衆庶の崇敬を集めた行願寺であったが、幾度も火災に遭っている。保延6年(1140)雷火のために塔を焼いたのを始めとし、翌永治元年(1141)炎上、仁平元年(1151)類焼、平治元年(1159)戦火により焼亡と平安時代末期だけでも4度の火事に見舞われている。また承元3年(1209)焼亡、仁治3年(1242)炎上、正応元年(1288)焼失、興国年間(1340~46)にも焼亡と伝えられている。さらに応仁元年(1487)の兵乱でまた焼けている。この度重なる火災の間に、元久元年(1204)に鳥羽上皇の御幸が行われ、寛正4年(1463)には第8代将軍足利義政の参詣があった。また永享年間(1429~41)頃にも法華経を講じる勧学会が催されていた。これらのことから、行願寺は焼失の度に再興されてきたことが分かる。

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行願寺 鐘楼と寿老人神堂

 最初にも触れたように、行願寺は西国三十三所観音霊場第19番札所であり、第18番札所は六角堂の別称をもつ頂法寺である。観音や薬師などの現世信仰を目的とした霊験所は、京都の庶民の間に信仰されるだけでなく、貴族の帰依をも得るようになる。そして中世を通じて庶民の結集する場所となり、この2つの札所に下京の平等寺(因幡堂)などが町堂とよばれるようになる。そして室町時代後期になると、町堂は経済力で勢力を伸張し自治的な組織力を持つようになった町衆の紐帯となる。町衆は町堂で定期的(上記の勧学会など)、あるいは臨時集会を開き、戦乱などの緊急時には町堂の鐘を突き鳴らして人々の決起を呼びかけるようになる。このような町堂の形成は、林屋辰三郎著「京都」(岩波新書 1962年刊)にも、応仁の乱の後に京都が町衆によって再興されて行く姿とともに描かれている。林屋は「言継卿記」の享禄2年(1529)正月十日の条を採り上げている。

八時分より河堂之鐘事之外つき候、一條殿御地へ地子を可取之由申て、柳本名字之物両人打入、妻子共人しちに取候由申候了、老父は一條殿へ参候、事之外之凶ふ也

 柳本と名のる者(翌日の条に柳本新三郎とある)が一条殿の土地に居住する民家へ、地代を徴収するといって乱入し、妻子を人質に強要した。そして翌日の11日にも革堂の鐘は打ち鳴らされ町衆が集結している。

又河堂之鐘をつき候、町々起て取巻ときをあけ候

 この後、高屋弥助が北から柳本新三郎に仕掛けて合戦となる。柳本の衆は3人が死に7~8人の負傷者を出している。南からは町々の者たちと合戦になるが、政所執事の伊勢守の衆と仁木二郎の内の中小路山城守等が仲裁に入って、両者の矢合戦を止めている。このように武家の介入に対して自治を守るために町堂を中心に町衆を動員できる基盤が既に出来上がっていたことが分かる。

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行願寺 賀茂明神石塔

 さらに時代の下った天文元年(1532)9月の天文法華一揆の際には、上京では革堂の鐘、下京では六角堂の鐘が撞き鳴らされ、法華衆や町人が軍勢として集められている。これは一向宗徒の入京の噂が広がり、法華宗徒の町衆が細川晴元や茨木長隆等の軍勢と手を結んで一向宗寺院焼き討ちを行っている。特に東山を隔てた山科盆地に、土塁に囲まれた伽藍と寺内町を構えていた一向宗の本拠である山科本願寺はこの時の焼き討ちで全焼している。この後、法華宗門徒は京都市中の警衛などにおける自治権を得て、地子銭の納入を拒否するなど、約5年間にわたり京都で勢力を拡大した。
 しかし天文5年(1536)勢力を拡大した日蓮宗二十一本山を脅威と感じるようになった旧寺院勢力は、日蓮宗徒の弾圧を始める。三井寺や興福寺そして本願寺の支持を取り付け、六角定頼の援軍を得た約6万の比叡山衆徒は京に攻め込み、洛中洛外の日蓮宗寺院本山をことごとく焼き払っている。その戦火が大火を招き、応仁の乱に勝る被害を受けたとされている。京での日蓮教団は壊滅し、宗徒は洛外に追放されている。以後6年間、京都において日蓮宗は禁教となる。天文11年(1542)に京都帰還を許す再勅許が下り、日蓮宗寺院十五本山が再建されている。

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行願寺 百体地蔵尊

 小川通一条上ルにあった行願寺は、天正18年(1590)豊臣秀吉の寺町造営に伴い、仙洞御所の東側、寺町荒神口に移される。現在松蔭町とよばれる京都府立鴨沂高等学校が移転先である。日文研に所蔵されている元禄6年(1693)頃と推定される洛中絵図には寺町荒神口の南東角に一条革堂の名が見える。既に一条の地ではないのに、この地でも一条革堂とよばれたのであろう。寛文9年(1669)の開帳の際には後水尾上皇の第10皇子で妙法院第34世の堯恕法親王の参詣を得ている。貞享元年(1684)梵鐘を鋳造するが、宝永5年(1708)の宝永の大火により禁裏御所・仙洞御所・女院御所・東宮御所とともに焼亡している。そしてこの大火の後で、現在の寺町竹屋町に移っている。天明3年(1783)に寺門より火を発し焼亡し、さらに天明8年(1788)の団栗焼けでも焼失を繰り返す。文化年間(1804~08)に本堂その他が再建され現在に至るが、山門は元治元年(1864)の禁門の変で焼失している。 本堂は西面し、開山堂は南面する。境内西北隅の石造五輪塔は賀茂明神石塔とよばれ、行円建立と伝承されるが、鎌倉時代の作と見られる。高さ3メートルもあり、火輪軒裏に一重の垂木形が施されている珍しい石塔である。水輪に方形に穿たれた穴は当初のものではなく、穴の中の不動石仏も新しいものである。
 「京都坊目誌 上京 坤」(新修 京都叢書 第15巻 京都坊目誌 上京 坤(光彩社 1968年刊))によると、寺伝より行円が賀茂神のために建てた、あるいは法華経を納めた石塔とされている。安永9年(1780)に刊行された都名所図会にも賀茂明神石塔が、現在は見当たらない鳥居とともに描かれている。

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