徘徊の旅の中で巡り合った名所や史跡などの「場所」を文書と写真と地図を使って保存するブログ

アーカイブ:2013年 6月 03日

横井小楠殉節地 その7

 

横井小楠殉節地(よこいしょうなんじゅんせつのち)その7 2009年12月10日訪問 横井小楠殉節地  この項では小楠暗殺以降のことをまとめてみる。  新政府の重臣に対する襲撃事件の実行犯を即刻逮捕することは、朝威と政体の上から必要不可欠なことであった。事件発生後直ぐに洛中には軍務官と京都府から捕吏が繰り出された。そして京七口には平安隊の兵が固め、大津・淀・伏見の往来を禁じ、犯人の逃走路を遮断した。早くから十津川人と肥後人が犯行に関わっていると見られ、肥後藩重役に呼び出しがかかり、十津川藩邸や屯所も捜索されている。 事件当日、中町夷川通の中村屋梅吉方で重態の柳田直蔵が発見される。襲撃で深手… ►続きを読む

 

横井小楠殉節地 その6

 

横井小楠殉節地(よこいしょうなんじゅんせつのち)その6 2009年12月10日訪問 横井小楠殉節地  横井小楠殉節地 その5では同世代人である佐久間象山との比較の中から、横井小楠の思想の柔軟さと革新性を見い出した。いよいよこの項では小楠暗殺がどのように行われたかについて記してみる。 慶応3年(1867)12月18日、三職が参内し朝議が行われ、王政復古を諸外国に宣言する擬案とともに人材登用・革政所設置の事が議論されている。「復古記 第一冊」(東京帝国大学蔵版 1930年刊)復古記巻十一の12月18日の条には下記のような人選が成されている。   御任選 御沙汰ニ付言上之向、列藩   德川&#… ►続きを読む

 

横井小楠殉節地 その5

 

横井小楠殉節地(よこいしょうなんじゅんせつのち)その5 2009年12月10日訪問 横井小楠殉節地  横井小楠殉節地から横井小楠殉節地 その4までを使い、横井小楠の思想的な展開について、開国論を中心に書いてみた。最初に比較したように佐久間象山と横井小楠について再び考えてみる。象山は文化8年(1811)2月に松代に生まれている。対して小楠は文化6年(1809)8月生まれと、現在の教育制度では小楠が1学年上となる。ほぼ同世代といってもよく、二人は同じ時代に生き、同じものを見て感じ考えてきたはずである。しかしながら歴史的に小楠と象山が巡り合うことはなかったようだ。「日本の名著 30 佐久間象… ►続きを読む

 
 

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