文書と写真・地図による「記憶」の再現

アーカイブ:2013年 7月

吉田屋・清輝楼・大和屋 その2

 

吉田屋・清輝楼・大和屋(よしだや・せいぎろう・やまとや)その2 2009年12月10日訪問 吉田屋・清輝楼・大和屋  ついに纏めきれずに、吉田屋・清輝楼・大和屋の紙数が尽きてしまった。nakaさんのブログ「よっぱ、酔っぱ」に掲載されている「吉田屋・清輝楼・大和屋」には、清輝楼、吉田屋、信楽楼の所有者の変遷とその地番が記されている。これを元にして三本木の変遷をもう少し書き続けてみる。 一番北に位置する立命館草創の地にあったのは清輝楼で、三本木中之町の北から2軒目の501番地。現在は株式会社英の事務所と駐車場となっている。清輝楼は神谷ゑいから“みね”に継がれ、明治30年(1897)5月31日に神谷茂太郎が平井権七に売却している。この権七とは下京区寺町松原下ル植松町で喞筒(ポンプ)の製造・小売そし… ►続きを読む

 

吉田屋・清輝楼・大和屋

 

吉田屋・清輝楼・大和屋(よしだや・せいぎろう・やまとや) 2009年12月10日訪問 吉田屋・清輝楼・大和屋  頼山陽の書斎・山紫水明処の石碑の前から、さらに東三本木通を北に上ると、駐車場の一角にまだ新しい立命館草創の地と記された石碑が建つ。立命館の前身となる京都法政学校が設立したことを示す石碑である。このことに就いては後に触れることとして、石碑に描かれた写真について考えてみる。 新三本木の町並みから何回か書いてきたように、新三本木は宝永5年(1708)3月8日に発生した火災の後に出来た町である。宝永の大火後の皇宮地と市街地の整備に伴い、東洞院通にあった元の三本木1丁目から3丁目までの人家を鴨川西岸の現在地に移したことにより開町している。鎌田道隆氏の論文「近世都市における都市開発-宝永五年… ►続きを読む

 

山紫水明処 その5

 

山紫水明処(さんしすいめいしょ)その5 2009年12月10日訪問 山紫水明処   文政5年(1822)11月 ~ 天保3年(1832)9月                    9年10ヶ月  頼山陽没後、3人の子供を連れた梨影は天保5年(1834)10月、福井藩医の安藤静軒に水西荘を譲り渡し、富小路通押小路下ルに移る。生活を切り詰め、山陽の残してくれた遺産を長く使うためだろう。さらに安藤英男の論文「頼山陽の京寓とその生活 ―頼山陽書簡集をめぐって」によると嘉永3年(1850)正月には“姉小路お池下ル”へ転宅し、梨影は安政2年(1855)9月に、この家で病没している。享年59。 山紫水明処  支峰は京都頼家の2代目を継ぎ、安政4年(1857)10月、母の残した“姉小路お池下ル”の家を引き払… ►続きを読む

 

山紫水明処 その4

 

山紫水明処(さんしすいめいしょ)その4 2009年12月10日訪問 山紫水明処   文政5年(1822)11月 ~ 天保3年(1832)9月                    9年10ヶ月  山陽は両替町押小路の家(薔薇園)に入居した年から早くも転居を考え、新しい家の物色を始めていた。緊まりのない町中が、学者文人の住む環境でないことに気が着き、鴨川や東山の景観との別れに惜しみを感じるようになってきたためであろう。そして終の棲家となる場所を探し始めたとも言える。 文政4年(1823)9月には東三本木丸太町の地に見込みをつけている。しかし狭斜(中国長安の道幅の狭い遊里のあった街の名)の巷にも近いので、親同然の菅茶山の顰蹙を買うことになるのではないかという恐れを山陽は抱いた。そのため早速、茶山… ►続きを読む

 

山紫水明処 その3 

 

山紫水明処(さんしすいめいしょ)その3 2009年12月10日訪問 山紫水明処  木崎好尚の「百年記念 頼山陽先生 増補版」(頼山陽先生遺蹟顕彰会 1933年刊)の年譜に従うと、文化8年(1811)の入京以来下記のように転居を繰り返していることが分かる。文化8年 (1811) 閏2月 入京 新町通丸太町上ル春日町に開塾文化9年 (1812) 正月 車屋町御池上ル西側に転居文化12年(1815) 6月 二条高倉へ転居文政2年 (1819) 3月10日 先発帰京、二条木屋町仮寓文政4年 (1821) 4月26日 両替町押小路上ル東側に転居             (薔薇園)文政5年 (1822) 11月9日 東三本木に経営中の宅             (水西荘・山紫水明処)に移る文政11年(1… ►続きを読む

 

山紫水明処 その2

 

山紫水明処(さんしすいめいしょ)その2 2009年12月10日訪問 山紫水明処 頼山陽山紫水明処  山紫水明処では、頼家の系譜と頼山陽の生涯について記した。ここでは頼家の系譜に就いてまとめてみる。なお下記の略系は木崎好尚の「百年記念 頼山陽先生」(頼山陽先生遺蹟顕彰会 1933年刊)による。初代:正茂 -2代:道喜 -3代:良皓 -4代:亨翁                         |     --------------------    |5代:春水 -6代:聿庵 -7代:誠軒 -8代:弥次郎                         |     --------------------    |9代:成一 -10代:惟勤  山陽の父である頼家第5代頼春水には2人の弟がいる… ►続きを読む

 

山紫水明処

 

山紫水明処(さんしすいめいしょ) 2009年12月10日訪問 山紫水明処 東三本木通に面した路地  頼山陽書斎山紫水明処の道標に従い、丸太町通より北に上ると直ぐに道は左右に分かれる。左の道は西三本木通、そして右は東三本木通と呼ばれている。新三本木の町並み その2でも書いたように、新三本木は南北に走る東三本木通に面した区域で、北側から上之町、中之町そして南町で構成されている。山紫水明処は最も南に位置する南町の鴨川に面した場所に建てられている。 頼山陽は江戸時代後期の儒者で安芸の人。名は襄、字は初め子賛、後に子成、通称は久太郎で山陽は号。他に三十六峰外史、改亭、悔亭そして憐二などといった時代もあった。安永9年(1781)12月27日、大阪で生まれている。 一見中国風の姓にも見える頼氏の先祖は、代… ►続きを読む

 

新三本木の町並み その2

 

新三本木の町並み(しんさんぼんぎのまちなみ)その2 2009年12月10日訪問 新三本木の町並み 右手に入口が見える  新三本木の町並みでは、宮地拡張に伴い三本木町が移転を余儀なくされたこと、そして鴨川の西岸に新三本木町を開町したこと、さらに遊里化して行く過程と頼山陽の山紫水明処を中心としたサロンが町の発展につながったことについて触れた。ここではもう少し幕末の町並みを見て行くこととする。 頼山陽書斎山紫水明処の道標に従い、丸太町通より北に上ると直ぐに道は左右に分かれる。左の道は西三本木通、そして右は東三本木通と呼ぶ。新三本木は南北に走る東三本木通に面した区域で、北側から上之町、中之町そして南町の3町で構成されている。既に新三本木の町並みで記したように、もともと新三本木は東洞院通出水下ルにあっ… ►続きを読む

 

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