吉田屋・清輝楼・大和屋
吉田屋・清輝楼・大和屋(よしだや・せいぎろう・やまとや) 2009年12月10日訪問
頼山陽の書斎・山紫水明処の石碑の前から、さらに東三本木通を北に上ると、駐車場の一角にまだ新しい立命館草創の地と記された石碑が建つ。立命館の前身となる京都法政学校が設立したことを示す石碑である。このことに就いては後に触れることとして、石碑に描かれた写真について考えてみる。
新三本木の町並みから何回か書いてきたように、新三本木は宝永5年(1708)3月8日に発生した火災の後に出来た町である。宝永の大火後の皇宮地と市街地の整備に伴い、東洞院通にあった元の三本木1丁目から3丁目までの人家を鴨川西岸の現在地に移したことにより開町している。鎌田道隆氏の論文「近世都市における都市開発-宝永五年京都大火後の新地形成をめぐって-」(奈良史学14号 1996年刊)によると、大火後の5月には新河原町筋すなわち先斗町および西石垣、土手町筋、新三本木などの旅籠屋および豆腐茶屋の営業停止を命じている。特に土手町筋、新三本木は新開地として召上げられた土地であったため、このような遊興客のための宿や酒食を提供する店が増加することに対する歯止めが行われたとも考えられる。すなわち鴨川河畔が遊興地として立地条件が良かったこと、そして開町からすぐに旅籠屋、茶屋、煮売屋、料理屋などの開業が進んだことが分かる。そしてこれらはやがて遊里化へとつながって行く。
寛政5年(1793)に秋月離島が著した「都花月名所」(「京都叢書 第2巻 扶桑京華志 日次紀事 山城名所寺社物語 都花月名所」(光彩社 1967年刊行))では、賞月(つきみ)という条で指月、渡月橋、雙岡などともに三本木を上げ下記のように記している。
賀茂川の西岸二條の北四町計にあり又新河原町これも鴨川の西岸也 三條の南也俗にぽんと町といふ
何れもひがし山の月を賞して洛下遊宴の地也
開町から100年が経とうとしている頃には、町芸者がはべり歌舞音曲に溢れる町になっていたようだ。頼山陽が水西荘に移ったのは、文政5年(1822)11月である。離島が賞月の地と記してからおよそ30年後になる。
しかし天保13年(1842)8月に島原以外の遊里を禁じられている。この時、祇園・二条・北野・七条は事実上私娼を認められたが、三本木の名が記されていなかった。このことより三本木は娼妓の場ではなかったと考えられている。幕末の嘉永年間(1848~54)に入ると大いに賑わい不夜城とも呼ばれるようになる。そして正式に遊里となったのは維新後の明治3年(1870)のことであった。碓井小三郎著の「京都坊目誌」(「京都叢書 第15巻 京都坊目誌 上京 坤」(光彩社 1969年刊行))では、東京奠都により大いに頽廃が進み、「時世の変遷此方面の遊客を減し同5年自然に廃業するに至れり。而して其の区域は上之町。中之町。下之町に限りしなり。」と説明している。その後明治30年(1897)東三本木花街の再興許可が下りたが、各方面より批判が生じ延期になったまま復活することはなかった。
既に絶版となっている竹村俊則の「昭和京都名所圖會 5 洛中」(駸々堂出版 1984年刊)の三本木の条には、少し長文ではあるが下記のように記されている。
三本木は宝永5年(1708)に開町した比較的新しい町であるが、鴨川にのぞんで風光もよく、むかしは頼山陽や幸野楳嶺等、文人画家の居住するところであった。また旅館料亭もあって、そこへ出入りする芸者があらわれた。芸者といっても宴会をとりもつ町芸者であって、娼妓はいなかった。十軒ばかりあった料亭のうち、吉田屋が古く、幕末頃には勤皇志士の密会所となり、桂小五郎もしばしば出入りした。芸者幾松はここの町芸者の一人で、桂をかばって新選組の追捕から免がれさせたという。この花街は明治初期にはお茶屋九軒、芸者置屋六軒となり、その後はまったく衰微するに至った。
竹村俊則は大正4年(1915)京都市上京区の京料理仕出し屋の一人っ子として産まれている。幼い頃より郷土である京都に関心を持ち、太平洋戦争が終わると郷土史研究家で民俗研究家でもある田中緑紅に師事し、著述家・郷土史研究家となる。また京都府庁、通商産業省事務官、京都国立博物館勤務などの経歴もある。
少年時代より秋里籬島による「都名所図会」に感化され、現代の名所図会を創ることを思いつき、昭和時代の京都図会となる「新撰京都名所圖會」の執筆を志す。学校卒業後、京都府庁に勤務していたがそれを退職し、自費出版の資金を調達する事業を興すが、失敗し負債を抱える。
昭和32年(1957)5月より、白川書院の創設者で詩人の臼井喜之介の編集発行する月刊誌「東京と京都」で東山の部の連載を開始する。この連載が好評であったことから、単行本の刊行を見据えた執筆となる。第1巻の刊行は昭和33年(1958)10月1日、そして第6巻と第7巻が昭和40年(1965)1月に刊行され、「新撰京都名所圖會」は完成する。項目数約1700、挿絵は約400枚。名所・史跡を紹介する本文は勿論として、鳥瞰図も竹村自身が描いている。なお旧版の「古寺巡礼京都」(淡交社 1976~8年刊)の表紙見返しの鳥瞰図も竹村の筆による。
「新撰京都名所圖會」で描かれている京都は、戦後の復興から高度経済成長期に入りかけ、まだまだ古き良き風景が残っている。しかしやがて大きく変貌する直前の姿でもあった。竹村は昭和55年(1980)より「新撰京都名所圖會」の増補と挿絵の入れ替えに着手する。平成元年(1989)までの9年をかけて、「昭和京都名所図会」全7巻を完成させる。項目数1870、挿絵315枚に及ぶ。
昭和59年8月と記された鴨川西畔三本木と題された図会には山紫水明処より5軒北側に3階建ての大和屋が描かれている。この三本木の条の注釈として吉田屋と清輝楼(竹村は精輝楼と表記している)について下記のように記している。
現在同所にある旅館料亭「大和屋」がその(吉田屋)後身といい、館内には桂小五郎が隠れたという穴蔵や地下道が残っている。しかし、一説に「大和屋」は「精輝楼」の後身であって、その南の湯浅邸が“「大和屋」の址”といわれる。
恐らく“「大和屋」の址”は吉田屋の址の間違いであろう。また清輝楼についても下記のように記述している。
「精輝楼」はのちに席貸「茨木屋」となり、大正年間には洋食「あづまや」となり、昭和二年現在の「大和屋」となったと伝える。
少し整理すると、①吉田屋→大和屋 ②清輝楼→大和屋 & 吉田屋→湯浅邸 ③清輝楼→茨木屋→あづまや→大和屋 の3つのことを言っているが、① あるいは ②+③ ということになる。竹村は、この部分の参考文献に師である田中緑紅の「亡くなった京の廓」をあげている。これは「京を語る会」から出版された緑紅叢書に所蔵されているが、第14輯「亡くなった京の廓」第16輯「亡くなった京の廓 下」という上下巻構成になっている。「亡くなった京の廓 下」の方には、三本木の記述が見当たらなかったことから、「亡くなった京の廓」に何らかのヒントあるのではないかと推測する。残念ながら東京の国立国会図書館でも緑紅叢書を全て読むことができないのが現実である。
京都市上京区の発行している区誌「上京・史蹟と文化 第43号」(上京区民ふれあい事業実行委員会 2012年刊)の区民から投稿として寄せられた高橋清氏の「東三本木のこと」では、やはり竹村俊則の「昭和京都名所図会」を参考にして、①吉田屋→湯浅邸→ディアステージ上京鴨川 ②清輝楼→茨木屋→“あずまや”→大和屋、なお大和屋となったのは昭和2年(1947)としている。さらに①’幸野楳嶺が吉田屋に住んでいた ③山紫水明処の少し北にあった信楽に与謝野晶子、上田敏、武者小路実篤らが泊まったとも書いている。
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