地蔵院 その2
臨済宗系単立 衣笠山 地蔵院(じぞういん)その2 2009年12月20日訪問
地蔵院では、開山の碧潭周皎とこの地を買い取り地蔵院を建立した細川頼之について書いてみた。明徳3年(1392)頼之が64歳で没すると、その遺志よって周皎の墓の傍らに葬られ、将軍義満を始めとし、公卿、諸大名が会葬したとされている。平形の自然石が用いられた周皎の墓に対して、頼之の墓は山形の自然石で細川石と呼ばれている。
碧潭周皎が逝去した応安7年(1374)の2年後の永和2年(1376)には、朝廷より地蔵院の寺領である荘園に対して、伊勢神宮課役夫工米、造内裏段銭、大嘗奉幣米などの臨時課役免除の特典が与えられている。これは一部有力寺社と五山禅院の特権であったことからも、当時の地蔵院への敬信の念が高かったことが伺える。また永和元年(1375)4月に仁和寺領阿波勝浦庄が尊朝入道親王によって寄進され、同年11月には勝浦庄内多奈保も加えられている。尊朝入道親王は光厳天皇の第4皇子で文和4年(1355)に仁和寺に入り、法守法親王から灌頂を受け、後に門跡となっている。 さらに康暦元年(1379)には周皎の俗弟祖光が近江伊勢等に散在する金蓮院領の半分を地蔵院に寄進している。これにより近江国横山郷内一切経保田、同国余吾庄内丹生菅並両村と伊勢茂永小泉御厨などであり、これにより地蔵院は大荘園の領主になっている。
細川頼之が室町幕府に復帰すると寺域拡大がさらに続く。至徳2年(1385)土佐田村庄内両得善保が摂津能直から寄進されたのを始めとし、摂津長町庄、同国音羽村下司職・同国銭原村内弘安寺並びに極楽寺領・同国安威庄内高野免田及び小高野田・同国広田位倍庄・丹波桑田庄内召次保・同国御厨横田保・同国大芋庄吉久名・同国恒枝名・同国小川宿野阿弥陀領・同国川関村長興寺領・山城下桂庄内今能名・同有友半名・同正安名・同国朝原西公文名・東久世築山内下地等が寺領に組み込まれていることが地蔵寺文書より分かる。やや時代の下った嘉吉3年(1443)頃に作成された地蔵院の所領目録によると、地蔵院敷地山林の他、洛中洛外に田畑41筆、摂津以下の諸国に荘園12ヶ所、境内塔頭3院、末寺23院を有していた。12ヶ所の荘園が摂津・丹波・土佐の細川氏宗家の分国に集中していることからも、細川氏の庇護がいかに大きかったかを物語っている。
最福寺跡その2で書いたように、応仁2年(1468)2月、東軍の山名右馬助等は谷の堂に陣を置き、同年10月10日に西軍と大合戦、以後翌年4月までの6ヶ月間、この地は西岡を占拠している西軍に対する東軍の出撃基地となり、しばしば小規模な戦闘が繰り返された。しかし文明元年(1469)4月22日、畠山義就等の西軍は一挙に谷の堂を攻略して西岡一帯の占拠に成功している。この時、地蔵院は最福寺、西芳寺及び法華山寺とともに再度炎上している。本尊の地蔵像も一時行方不明となる。住持九成周韶が八方手を尽して探し戻したとされている。乱の後、一度は復興したものの天正13年(1585)の大地震で損壊している。江戸時代に入り堅操松元住持の代に、細川藩の支援により復興が始まった。12世住持の元策は寛文3年(1663)細川頼之の木像を補修し、宝永元年(1704)には14世住持の古霊が方丈等を中興し寺観を整えている。明治21年(1888)に竜済と延慶の両院を合併し、昭和10年(1935)に現在の本堂を再建している。
地蔵院に掲示されている境内図の通り、東面する総門を潜ると美しい竹林が両側に広がる。その中を西に進む参道があり、突き当たりに本堂が現れる。本堂に向かって右側手前には細川頼之公碑が建つ。この碑は明治23年(1890)11月の日付が入っており、土佐藩出身の細川潤次郎撰、熊本藩主細川斉護の6男にあたる長岡護美書となっている。
本堂の左手には碧潭周皎と細川頼之の墓が並ぶ。いずれも自然石を用いたもので左側の周皎は平らな四角形の石に対して、右側の頼之は中央が尖がった山型の石である。(2字判別できず)宗鏡禅師、細川武蔵守頼之と葬送者の名前を刻んだ石柱が傍らに建てられ、新しいお花が供えられていた。本堂の右脇には鎮守堂として開福稲荷大明神が祀られている。
総門から本堂へと導いた参道は、右手すなわち北側に90度折れて中門へと続く。中門は総門より小ぶりであるが白い壁と相まって美しい。中門の先には庫裏と方丈が東西に並び、方丈南庭がある。
京都市都市緑化協会の公式HPに公開されている「京の庭を訪ねて」の地蔵院(竹の寺)庭園では、碧潭周皎の作と伝えられているものの方丈が貞享3年(1686)に建てられいるので、この時期に整えられたものと考えている。文明元年(1469)に本尊が一時行方不明になるほどの被害を受けているので、創建当時の庭が残っていたとは考え難い。京都市の名勝に登録されている現在の庭には30個ほどの石が各所に据えられ、ツバキ、モミジ、ゴヨウマツなどが植えられている。築山や池などかない平庭形式の枯山水庭園である。据えられている石の形は様々で、羅漢の立ち並ぶ姿を思い浮かべることより、十六羅漢の庭と呼ばれているらしい。 苔が一面に生えワビスケやソデカクシの他に八重咲きのツバキが植えられているため、3月下旬から4月にかけてが鑑賞に良い季節とされている。庭の印象としては、方丈の近くまでツバキなどの樹木が植えられているため、庭石の存在があまり見えてこない。特に中央に植えられたワビスケが見事な大樹に成長し、既に庭の規模には合わなくなっている。恐らく当初の庭の景色とは異なったものになっているのであろう。ツバキが開花している時だったら異なった印象を得たのかもしれないが、この眼前の景色の方がはるかに長い時間続くことは確かである。なお方丈内は撮影禁止ということなので、残念ながら庭の写真は掲載できませんでした。
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