櫟谷宗像神社
櫟谷宗像神社(いちたにむなかたじんじゃ) 2009年12月20日訪問
梅宮大社の石造の一之鳥居を潜り、四条通に戻る。梅宮大社前の停留所より京都市バス28系統大覚寺行に乗車する。バスは松尾橋で大堰川を渡り、阪急嵐山線松尾駅で右折し京都府道29号宇多野嵐山山田線に入る。そのまま北上し、法輪寺の門前を経て、渡月橋の始まる嵐山公園の停留所に着く。ここで下車して中ノ島から嵐山側に戻ると、西芳寺南へ二十町の三宅安兵衛遺志の道標に出会う。大正13年(1924)の建立で、碑文には開山夢窓国師造築、内務省指定庭園の文字が見られる。櫟谷宗像神社は、嵐山モンキーパークの看板の奥にある読み難い神社という印象があり、いつも近くの渡月橋を渡りながらも拝観したことがなかった。本日はさらに奥にある大悲閣へも訪れる予定である。
「延喜式」神名帳に載る葛野郡20坐の内の櫟谷社にあたる。中近世を通じて松尾大社の末社七座の一であり、近代以降も境外摂社となっている。竹村俊則は「昭和京都名所圖會 4 洛西」(駸々堂出版 1983年刊)で、古くから秦氏が祭祀を行ってきたと考えている。なお現在の地名は西京区嵐山中尾下町であるが、かつては上山田村に属していた。ただし「山城名勝志」(新修 京都叢書 第7巻 山城名勝志 乾(光彩社 1968年刊))の巻十には社名とは分けて地名として下記のように説明している。
櫟谷 大井川橋南岸有二櫟谷神社一此邊乎
さらに貞応3年(1224)藤原為家の「大ゐ川しくるゝ秋のいちゐたに 山や嵐の色をかすらん」を掲載している。
「式内社調査報告 第一巻 宮中・京中・山城国」(皇學館大學出版部 1979年刊)では「山城志」の「櫟谷神社 上山田村北櫟谷」という記述より、江戸時代前半期までは地名として残っていたと推測している。また同じ「山城志」内の葛野の地名の中には「櫟原」が見えるが、以下のように記されている。
櫟原 己廃上山田村北有二櫟谷社一
神社西側の幅1メートル程度の無名の小谷が櫟谷であった可能性をも指摘している。また、志賀剛の「式内社の研究 第三巻 山城・河内・和泉・摂津」(雄山閣 1977年刊)では、大堰川から上山田と松尾方面に分水する樋口が当社に隣接することと、神社の背後の山の茂り具合からも式内社の立地にふさわしいとしている。
松尾大社が刊行した「松尾大社略記」(松尾大社 1975年)によると櫟谷社の祭神は奥津嶋姫命で宗像社が市杵嶋姫命としている。しかし「松尾社譜」などではその逆の表示となっている。
奥津嶋姫命は多紀理毘売命の別名であり、市杵嶋姫命と多岐都姫命とともに宗像三女神の三柱であり、古代より朝鮮半島への海上交通を護る神として大和朝廷の篤い敬神を受けてきた。つまり市杵嶋姫命や奥津嶋姫命にしても水神であり、亀山より急流が続いた大堰川が嵐山で緩やかな流れに変化する。秦氏の土木技術によって葛野大堰が建設されたことで、このような穏やかな流れを生み出されたのである。その意味からも上記の「式内社調査報告」が指摘するように水の神、船の神の座す地として最適な場所でもあった。なお松尾大社でも記したように、秦氏は松尾社の祭神として大山咋神とともに市杵嶋姫命を祀っている。水神を祀ることには秦氏が大陸から渡来してきたことに関係があるのかもしれない。「日本歴史地名大系第27巻 京都市の地名」(平凡社 初版第4刷1993年刊)でも、
秦氏の大陸系氏族としての性格から合祀されたと考えられる。
とかなり曖昧な記述となっている。
櫟谷社の創建時期は明らかではない。松尾大社の創建については「伊呂波字類抄」第六巻107頁に松尾の条があり下記のように記されている。
本朝文集云、大宝元年秦都理始建立神殿、立阿礼居斎子供奉
大宝元年(701)に秦都理が社殿を営み、山頂附近の磐座から神霊を移したことを著わしている。しかし松尾大社自体の創建以前より、松尾山の頂上近くの秦氏本系帳では日崎の峰とよばれる場所に磐座があり、既に信仰は始まっていた。「式内社調査報告」では櫟谷社の創建が不詳であるものの、その整備が行われたのは松尾大社の創建時期とそれ程かわらない頃と見ている。そして松尾大社の磐座と同様に櫟谷社においても創建以前から土着信仰があったと考えている。
「続日本後紀」によると嘉祥元年(848)11月2日に無位から従五位下に、貞観10年(868)閏12月10日に正五位下に叙されている。そして「百錬抄」の仁治2年(1241)8月7日の条に「今夜丑刻 櫟谷宗形両社焼亡 御体同焼失了 是松尾末社也」とあり、この火災後の再興によって松尾社の末社に入ったとも読める。
現在の櫟谷宗像神社では、櫟谷神と宗像神と相殿の形式をとり、向かって右に櫟谷、左に宗像の神が祀られている。これはそれぞれの祭神である市杵嶋姫命と奥津嶋姫命が素戔嗚尊の神剣から産まれた神であるため相殿形式に簡略化されたと考えられている。ただし室町時代初期の作品とされる「松尾神社境内絵図」には相接しながらも独立した社殿で描かれ、祭神の並びは現在の逆になっているようだ。このあたりが「松尾大社略記」の祭神の記述に関係しているのかもしれない。
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