文書と写真・地図による「記憶」の再現

野宮神社 その2

野宮神社(ののみやじんじゃ)その2 2009年12月20日訪問

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野宮神社

 嵯峨野の竹林の中で西と北に分岐する箇所には、檀林寺旧跡・前中書王遺跡の三宅安兵衛遺志の石碑が建てられていることは、既に嵯峨野の町並み その5で記述した。この分岐点の北側には野宮神社の黒木鳥居がある。この道は三宅安兵衛遺志の道標にもあるように、野々宮、常寂光寺、落柿舎、二尊院に至る道であるため、嵯峨野を散策する観光客の大部分が通る路となっている。薄暗い竹林の中の細い小路であるため、いつも渋滞している印象が強い。 嵯峨野の町並み その3でも記したように、この路はかつての亀山殿の野宮大路にあたる。財団法人京都市埋蔵文化財研究所が2005年に報告した「史跡・名勝嵐山」(京都市埋蔵文化財研究所発掘調査概報 2004-11)には、詳細に記されている。元徳元年(1329)に作成された「山科国亀山殿屋敷地指図」、貞和3年(1347)の「山科国臨川寺領大井郷界畔絵図」そして元禄5年(1692)の「天龍寺境内絵図」を重ね合わせ、その上で現在の嵯峨野のどの位置にかつての建物や施設が存在していたかを推定している。 三宅安兵衛遺志の石碑の云う檀林寺旧跡とは嵯峨天皇の皇后橘嘉智子が承和年間(834~48)に建立さした尼寺である。嵯峨天皇は弘仁14年(823)藤原冬嗣を押し切り、異母弟の大伴親王(淳和天皇)に譲位している。嵯峨上皇は退位後、冷然院の造営を手掛け弘仁年間(810~24)には完成したと考えられている。冷然院とは平安時代の歴代の天皇の後院、すなわち譲位後の御所の1つとして嵯峨上皇によって造られた。大内裏の東に隣接するように、左京二条二坊、大宮大路の東・二条大路の北4町を占める規模であった。丁度、現在の二条城の北東部分にあたる。これに対して、嵯峨院は創立時期が明らかではないものの皇子時代には山荘として造営され、即位後には離宮として使われたとされている。「日本後紀」の弘仁5年(814)閏7月27日の条に下記のようにあるのが嵯峨院の初見とされている。

猟北野 日晩御嵯峨院
侍臣衣被

 この後も度々の行幸があり、譲位後も後宮として造営した冷泉院がありながらも当地に足を向けている。そして承和元年(834)には嵯峨院内に新造御所を設け遂には遷居も行っている。まさに冬嗣が恐れていた、平城、嵯峨の二人の上皇の誕生によって朝廷の財政を逼迫させることが現実となった。檀林皇后も嵯峨上皇について嵯峨に移ったので、檀林寺の創建は新造御所や寝殿が完成した後のことと考えられる。「続日本紀」承和3年(836)閏5月14日の条に以下のように記されている。

右京少属秦忌寸安麻呂 造檀林寺使主典同姓家継等
姓朝原宿禰

 このことより秦家継が造檀林寺使主典となったことが分かる。皇后は創建に際し唐の禅僧義空を招聘しして開山としているため、日本で最初の禅門の寺とされている。皇后の死後、官寺となっているが、平安時代中期には荒廃したことが「赤染衛門集」に記されている。

 檀林寺の旧跡は明らかではないが、「山城名勝志」(新修 京都叢書 第7巻 山城名勝志 乾(光彩社 1968年刊))の巻九では下記のように記している。

檀林寺 嵯峨舊図在朱雀大路東作道北
檀林寺跡云云嵯峨大指図在天龍寺前金剛院北東側
按増鏡檀林寺ノ跡ニ浄金剛院ヲ建テルト云云
浄金剛院天龍寺雲居庵ノ東隣也
雪村行道記ニ西禅寺檀林寺ノ云ヘリ然ハ此辺皆檀林舊地乎

 檀林寺の旧地に浄金剛院が建てられ、西禅寺は浄金剛院の東北にあたり、野宮の南となることからも野宮の南側の天龍寺一帯が檀林寺の寺域であったと考えてよいだろう。

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野宮神社

 野宮神社は、伊勢神宮に向う前の斎王が潔斎をした野宮に由来する神社であると伝えられている。斎王とは伊勢神宮または賀茂神社に巫女として奉仕する未婚の内親王または親王の娘である女王を指す言葉である。厳密には内親王は斎内親王と呼び、女王の場合は斎王または斎女王と称したようだが、現在では両方をまとめて斎王と呼ぶのが一般的である。また伊勢神宮の斎王を斎宮、賀茂神社の斎王を斎院とも称し、斎宮は天武朝から南北朝時代まで、斎院は平安時代から鎌倉時代まで継続した。

 先代の斎王が退下すると、未婚の内親王または女王の中から候補者を選び出し、亀卜により吉凶を占い新たな斎王を定める。亀卜とは、亀の甲羅を火で焙り、その時入ったひびで判断する卜占である。新たな斎王が定まると勅使が斎王卜定を告げ、斎王はただちに初斎院での潔斎に入ることとなる。この後、翌年の8月上旬に野宮に入り、およそ1年間斎戒生活を送り、9月に伊勢へ下向する。
 上記の斎王の卜定から祓禊まで流れについては「延喜式」巻五 神祇五の斎宮、「定斎王」から「祓禊」までを読むと分かる。やや長文となるが下記に記しておく。

斎宮。
凡天皇即タマハバ者。定伊勢太神宮斎王
内親王嫁者之 [若無内親王者。
世次。簡定女王之。]
即遺シテ勅使於彼家 告示事
神祇祐已上一人。 率僚下。随勅使向。
卜部。解除。神部以木綿賢木
テヨ殿四面及内外。[賢木。儲レ之。]
[木綿所司解除料。散米。酒肴等。本家儲之。]
後択日時百官為大祓
凡斎内親王定畢テ即卜シテ宮城便所
初斎院。祓禊而入。至ルマテ干明年七月
於此。更ニ卜城外浄野
畢。八月上旬
メテ吉日。臨レ河祓禊。
即入野宮。自ラン
マテ干明年八月一。斎於此。九月上旬
定吉日。臨レ河祓禊
入於伊勢斎宮

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野宮神社 黒木鳥居

 野宮は京外の清浄な地を卜定し、その地に殿舎が一時的に造営され、斎王一代で取り壊される慣わしとされていた。この野宮は平安時代以降主に嵯峨野に築かれ、野宮神社の地もこの野宮の跡地とされている。しかし厳密には野宮がどこに存在していたかは分かっていない。ただし野宮神社の公式HPに掲載されている野宮神社の由来では、「当社の場所が使用されたのは平安時代のはじめ嵯峨天皇皇女仁子内親王が最初とされています。」としている。 斎王の制度は南北朝時代の後醍醐天皇の代を最後に兵乱のために廃絶している。斎王制度が無くなった後の野宮神社は天照大神を祀る神社として存続していたが、こちらも戦乱の中で衰退していった。後に室町時代から戦国時代にかけての後奈良天皇や江戸時代中期の中御門天皇らの命により再興され、皇室からの厚い崇敬を受けてきた。

 野宮神社の鳥居は皮のついたままの丸木で造られている。この様式は鳥居の最も古い形とされ、黒木鳥居と呼ばれている。黒木鳥居の形式的な特徴は次の7点である。

     ・反り増がない
     ・島木がない
     ・笠木が丸太状である
     ・貫が丸太状である
     ・額束がない
     ・柱は2本である
     ・樹皮がついている

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野宮神社 斎宮旧趾

 前回訪問した2008年12月には気がつかなかったが、社の北側に広がる庭の中に斎宮旧趾の石碑がある。フィールド・ミュージアム京都には、2004年調査となっているので、前回の訪問の際にも存在していたことは確かである。庭の中にあるものは自然石だと思い込んでいたのかもしれない。皇紀二千六百年記念として野々宮町青年会が建立したようだ。昭和15年(1940)が神武天皇の即位から2600年に当たるとされたことから、橿原神宮や陵墓の整備などの記念行事を計画され実行されている。この石碑もその一環として作られたものかもしれない。

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野宮神社

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