嵯峨野の町並み その5
嵯峨野の町並み(さがののまちなみ)その5 2009年12月20日訪問
千光寺の石段を下り、大堰川沿いを再び櫟谷宗像神社まで戻る。 渡月橋を渡り嵯峨野に入る。嵯峨野については、嵯峨野の町並み、その2、その3、その4と書いてきたので、新たに書き足すこともないが、美しい竹林の写真が撮影できたので、ここに残しておく。
渡月橋から丸太町通をつなぐ京都府道29号線宇多野嵐山山田線は、いつ訪れても人通りが途切れることが無い。また訪れる度に新しい店を発見するなど、嵐山が清水寺や哲学の道と同じく、人気の観光地であることを思い知らされる。かつての嵯峨の朱雀大路でもある出釈迦大路の西側は天龍寺の境内が続くため店舗の数も限られている。これに対して東側は京福電気鉄道嵐山本線の嵐山駅から出てくる観光客を待ち受けるように店々が軒を連ねている。そのため、いつも天龍寺側の歩道を歩くこととしている。 天龍寺の塔頭三修院を過ぎると、天龍寺の境内も終わり西側の歩道に面して民家が並びだす。そこより70メートルくらい北に進むと左に折れる道が現れる。この角に、釈迦堂・清瀧方面と天龍寺・嵐山の2本の道標が建つ。前者は昭和初期に京都市観光課によって建立されたもので、南面に「右 釈迦堂、清瀧方面 左 野宮、二尊院鳥居本方面」、西に「左 釈迦堂、愛宕電車方面」、東に「右 野宮、鳥居本方面 左 嵐山、松尾方面」とあり、民家に接する北側に建立者名が記されている。京都市観光課は全国に先駆けて昭和5年(1930)に設置されているので、それ以降に建てられた道標であろう。後者は三宅安兵衛遺志の道標で、西面の碑文から昭和4年(1929)春に建立されたことが分かる。こちらも東面に「野々宮 亀山公園 小倉山 常寂光寺 落柿舎 二尊院 愛宕道」、北に「北 釈迦堂 愛宕道」、南に「南 天龍寺 嵐山」とほぼ嵯峨野の観光地を網羅している。恐らく、この三宅安兵衛遺志の道標が先に建立され、後れる事数年して京都市の道標が造られたと思われるが、何か後から作られたにもかかわらず、印象の薄い石碑となっている。同じ大きさ、同じ書体で各地に建てられたものの一つであろう。三宅安兵衛遺志の石碑の風格には及ばず、二周り三周り小さく業務連絡的に説明しているのが面白い。この角には、さらに青地に白文字の道標が設置されている。左に曲ると野宮神社、常寂光寺、落柿舎に至ることが記されている。これら新旧3つの道標が観光客に道を説明している。確かにここが嵯峨野観光の起点となる場所かもしれない。
現在、私達の目の前に存在する神社や寺院は、昔から絶えることなく続いてきたと信じ込でいる人が多いのではないか?特に古色を帯びた名所と呼ばれる社寺は、少なくとも江戸時代以前から多くの人の信仰によって護られてきたと思い込んでしまう。そういうことから、山口敬太氏による「嵯峨野の名所再興にみる景観資産の創造と継承に関する研究 -祇王寺、落柿舎、厭離庵の再興事例を通して-」を読むと非常に面白いことが分かる。観光地嵯峨野では、昔から多くの名所が存在してきたが、その多くは廃絶と復興を繰り返して現在に至っている。山口は「山城名勝志」と「山州名跡志」、「京華要志」と「旧都巡遊記稿」そして「嵯峨誌」を用いて、江戸時代中期(1771年)、明治中期から後期(1895~1918年)そして昭和初期(1932)にそれぞれの名所が存在していたかを確認している。三宅安兵衛遺志の野宮、常寂光寺、二尊院、釈迦堂(清凉寺)、天龍寺などは絶えることなく存続してきたが、落柿舎、厭離庵、祇王寺、宝筐院、滝口寺そして檀林寺などは明治から昭和にかけて再興されている。この再興の時期は、名所巡りが盛んになった江戸後期と明治以降の廃仏毀釈の影響で廃絶が増加した時期と一致している。その多くは嵯峨の住民が有志として再興を手掛けている。
上記の道標に従い西に曲る。何軒か店舗が続いた後、小倉百人一首文芸苑 建石町広場を過ぎると、嵯峨野の竹林が始まる。竹林に入ってしまうとその大きさが分からなくなるが、Google Mapの航空写真で見ると、JR西日本の山陰本線を中心に東西500メートル南北200メートル位の範囲に樹木が密生している。先ほどの三宅安兵衛遺志の道標から竹林に入った道は、100メートルくらい進むと右に曲り、その先で西に進む道と北に向かう道に別れる。野宮神社の鳥居は北に向かう道に面して建てられている。この道は山陰本線の踏切を越え竹林を出た後、落柿舎へと至る。 また西に向かう道は天龍寺の北門前を過ぎ、200メートル位進むとT字路に突き当たる。南は亀山公園へ北は大河内山荘とトロッコ嵐山駅へと続く。
西と北に分岐する竹林の中の分岐点には、檀林寺旧跡・前中書王遺跡の三宅安兵衛遺志の石碑が建つ。前回の訪問の際に、この石碑を撮影していなかったので、今回は忘れずに撮影する。檀林寺旧跡とは嵯峨天皇の皇后橘嘉智子が承和年間(834~48)に建立した檀林寺のことで、皇后自らが招請した唐の禅僧・義空が開山となっている。嵯峨天皇が嵯峨院を造営し、皇后と共に暮らしたため、皇后も禅学興隆の道場として檀林寺をこの地に創設している。残念ながら皇后の没後の延長6年(928)には焼失し、檀林寺は平安中期に廃絶している。 前中書王遺跡は、醍醐天皇の第16皇子・兼明親王の嵯峨野に建てた山荘を指し示す。一時期臣籍降下して源兼明と名乗る。博学多才で前中書王と呼ばれ、甥の後中書王・具平親王と共に並び称され、天禄2年(971)には左大臣となる。貞元2年(977)源昭平を名乗っていた昭平親王とともに勅により親王に復する。この皇籍復帰には藤原兼通・兼家兄弟の争いが関係している。関白内大臣になった兼通は、弟の兼家を大納言に据え置いたまま、従兄弟にあたる藤原頼忠を左大臣に引き上げようとした。そのため左大臣にあった兼明親王を外すために、二品中務(中書)卿に任じている。寛和2年(986)親王は閑職の中務卿を辞し、嵯峨に隠棲するため山荘雄蔵殿を造営している。山荘に清泉が無いのを嘆き、亀山の神に祈ったところ、遂に霊泉を得られたことが「本朝文粋」に記されている。
檀林寺旧跡・前中書王遺跡については嵯峨野の町並みに記しているのでご参照下さい。
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