大河内山荘
大河内山荘(おおこうちさんそう) 2009年12月20日訪問
既に嵯峨野の町並み その5でも記述したように嵯峨野の竹林の中で西と北に分岐する箇所には、檀林寺旧跡・前中書王遺跡の三宅安兵衛遺志の石碑が建てられている。ここより北側に入ると野宮神社の黒木鳥居がある。再び分岐点まで戻り、西へと続く道を進む。左手に現れる天龍寺の北門を過ぎてさらに進む。このあたりが嵯峨野の竹林の中で最も美しい場所ではないかと思う。やがてこの道は突き当たり南北に分かれる。南は嵐山公園亀山地区につながり、北はJR西日本山陰本線のトロッコ嵐山駅を越えると小倉池と御髪神社へと続く。大河内山荘の入口は、この突き当たりにある。
大河内山荘は大正、昭和期の映画俳優の大河内傳次郎によって造営された個人住宅である。山荘という名称になっているものの、長く傳次郎はここで過したので、一時的な滞在のためではなく住宅として作ったものと考えてよいだろう。
大河内は明治31年(1898)福岡県築上郡岩屋村字大河内の代々医者を家業とする家の次男として生まれている。実業家を目指し大阪に出、大阪商業学校に入学している。卒業後に就職した会社も大正12年(1923)の関東大震災の影響で倒産する。その後、芝居の脚本を書いて身を立てることを志し、倉橋仙太郎が主宰する新民衆劇学校に入学し、第二新国劇の役者ではなく文芸員に採用されている。
新国劇は大正6年(1917)に島村抱月が主宰する芸術座を脱退した澤田正二郎らによって結成された劇団である。当時の新派の流れには反し、国劇すなわちわが国の演劇を目指し、形骸化しつつあった歌舞伎=国劇に新たな写実的な表現を加えた時代物を演じていた。昭和4年(1929)の澤田の急逝後、島田正吾と辰巳柳太郎を得て戦後の発展につなげている。しかし昭和47年(1972)劇団に所属していた緒方拳が退団するなど時代は劇場からテレビへと移って行く。ついに昭和54年(1979)には株式会社新国劇が倒産し、創立70周年を迎えた昭和62年(1987)の記念公演後に解団している。新国劇の名称は澤田家に返還されている。
倉橋から役者を勧められた傳次郎は大正13年(1924)に大阪楽天地旗上げ公演に、室町二郎、または室町次郎の芸名で、澤田正二郎と同じ舞台に立っている。これを契機として、マキノ省三と直木三十五の設立した聯合映画芸術家協会に入り、大正14年(1925)聯合映画芸術家協会の「弥陀ヶ原の殺陣」で銀幕デビューを果たしている。大正15年(1926)10月には日活大将軍撮影所に入社し芸名も大河内傳次郎と改めている。そして昭和3年(1928)林不忘の小説「新版大岡政談」の映画化で大河内は大岡越前と丹下左膳の二役を演じ大評判となる。これ以降、丹下左膳の題名を持つ映画17本に主演している。また12年間の日活時代に100以上の作品に主演として出ている。
昭和12年(1937)に東宝へ移籍している。「ハワイ・マレー沖海戦」や「加藤隼戦闘隊」などの戦中制作の戦争映画を通じて現代劇にも多く出演している。戦後は東宝から新東宝、大映京都撮影所へと移籍を繰り返したが、やがて自分の主演作では客を呼べないことを悟り、東映京都撮影所に入社している。晩年は多くの作品に脇役として出演することも多かった。昭和37年(1962)胃がんのため大河内山荘で死去。享年64。
早くして丹下左膳の役を得た大河内傳次郎は、同時代の時代劇スタアである阪東妻三郎、嵐寛寿郎、片岡千恵蔵、市川右太衛門、そして長谷川一夫の中では一番の年長にあたる。そして傳次郎と長谷川一夫を除くと、自主企画を目指し自らのプロダクションを立ち上げ作品の製作を行っている。しかし、いずれのプロダクションも長くは続かず、結局は映画会社に戻って行く。当然の事ながら経営的な躓きも多く存在していたが、現在の興行界から想像も出来ないほど大きな力を映画会社が保持していた。自らの権益を守るため五社協定を結び、自社製作以外の作品への出演を排除してきた。それによって多くのプロダクションは、その製作に大きな制限を受けてきた。
しかしテレビの普及に伴い映画産業自体の斜陽化が進み、映画会社は作成費用の削減や撮影所の縮小をせざるを得なくなった。この時期、三船プロ、石原プロ、中村プロ、勝プロなどの独立制作プロダクションが再び生まれている。そして昭和46年(1971)の五社協定崩壊により、映画会社からの制約が無くなる。製作環境が好転したものの、主宰者である俳優だけでは舞台、映画そしてテレビで客を呼べなくなると、プロダクションの設立目的を変更せざるを得なくなる。そして次第に経営が困難になっていくのを抑えることができなくなる。
亀山に大河内山荘を築いたのは昭和6年(1931)のことだった。上記のように自らのプロダクションを持つ事のなかった傳次郎にとって、全盛期の映画出演報酬の多くをここに投入したことと思われる。敷地面積は凡そ6000坪で亀山の頂上部分も含まれている。GoogleMapで見てみると分かるが、天龍寺方丈から庭園を眺めた時の正面にあたる部分の亀山は、嵐山公園亀山地区に当たっている。大河内山荘の敷地は、この嵐山公園亀山地区の北側、すなわち天龍寺庭園の正面から右側、天龍寺の多宝殿から百花苑の西の山陰本線のトンネルの上部に位置している。明治初期ではなく昭和初期の段階にこの場所を一個人が購入できたことに驚かされる。
入口を入ると山荘の北側に向かって斜面を上って行く。やがてヴォールト状の桧皮葺屋根を載せた中門が拝観者を迎えてくれる。間口約1.7mの小規模な門だが、丸太や名栗の部材を多用した数寄屋風の意匠で奇巧性に富んだ特異な形式はこれから始まる大河内山荘の意匠を良く顕している。これを潜ると正面に大乗閣が現れる。傳次郎は数寄屋大工の笛吹嘉一郎と邸宅作りから始めたようだが、大乗閣として竣工したのは昭和16年(1941)のことだった。主屋である大乗閣は寝殿造、書院造、数寄屋造に民家など日本の各種の建築様式を一つに集めた建築となっている。中門から眺める正面中央は書院造を思わせるが、左手に民家風の茅葺の屋根も見えている。東側に回りこむと泉殿のように突出した寝殿が現れる。如庵写しの小間の茶室や民家風の勝手、土間を一体化させ、必ずしも調和の美を求めた建築ではないことは明白であろう。見る角度によって異なった印象を与える不思議な建物になっている。確かに数奇屋建築の遊び心を感じさせる建築に仕上がっている。
苑内の南西部に東面して持仏堂が建つ。昭和6年(1931)と苑内でも初期に竣工した建物で、名称通り傳次郎が座禅を行った建物。正面1間奥行2間と正方形の平面ではなく、入母屋造の桟瓦葺の屋根を架け、妻入で正側面3方に刎高欄付切目縁を回している。二尊院にある九条家の位牌堂を写したものとされている。円柱を頭貫内法長押で固め、台輪上に三斗組と中備蟇股を置く。小規模な建築にもかかわらず、軒は吹寄垂木を1支おきに疎らに配すなど全体に技巧的な造りを施している。この小建築からもこの山荘を造り上げた傳次郎の執念が感じられる。
順路に従うと次に茶室の滴水庵とその前庭に辿りつく。この茶室は大乗閣の南方の高所に位置する。平屋建で桁行5間梁間2間の入母屋造茅葺の主体部に、南面西半に切妻造土庇付の突出部を付けた建築となっている。2室の広間の茶室と土間のある水屋は丸太や竹を多用した軽快な数寄屋風の造りになっている。明治期に建設されたものを昭和7年(1932)にこの地に移築している。
大河内山荘庭園は主屋である大乗閣を中心として回遊式に造られている。これらは大河内傳次郎と庭師広瀬利兵衛が30年間をかけて造りあげている。苑路は場所ごとに異なった仕上げを施している。傾斜の厳しい場所には、平瓦の端部を上に向けて埋めることで滑り難くしている。また各所に石灯籠や石組みを配することで、次第に高台に登って行く辛さを紛らわす役割を担っているのだろう。
やがて苑内の最も高い場所に設けられた月下亭に辿りつく。亭と云いながら眺望を遮る壁を取り除いているため東屋のような建物となっている。南側の半分に板敷きの縁台が拵えられている。この縁台の東側には大きな開口が開けられているため、縁台は市内とその奥に聳える比叡山を鑑賞するために設けられた。月下亭という名称から分かるように東から昇る月を眺めるための場所である。縁台の北側には室内にも係わらず白砂が敷かれた庭となっている。その端に腰掛が作られているので、茶室の路地として見立てて作ったのであろう。
月下亭からの京市内の眺めと同時に、月下亭の手前にある展望台からの嵐山の眺望も素晴らしい。恐らく嵯峨野で両方の眺望が楽しめる場所はここしかないのではないかと思う。嵐山の峰の中に千光寺の楼閣が実に小さく見える。また東側の眺望も遮られるものが一切無い点が素晴らしい。大悲閣から眺望と比べるとやや視点の高さが低いように思えるものの、より一層近い分だけ鮮明に大きく見える。
苑路を下り大河内傳次郎記念館を覗き休憩所で抹茶を頂いた。入苑料金は抹茶と大河内山荘の銘の入った最中が付いての価格なので決して高くは無いと思う。
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