文書と写真・地図による「記憶」の再現

常寂光寺

日蓮宗 小倉山 常寂光寺(じょうじゃくこうじ) 2009年12月20日訪問

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常寂光寺 山門

 小倉池の北端から80メートル位北に歩くと常寂光寺の山門が現れる。
 常寂光寺は日蓮宗の寺院で、山号は小倉山。元々、この地には天龍寺の弘源寺があった。弘源寺は永享元年(1429)室町幕府の管領であった細川右京太夫持之が、天龍寺の開山である夢窓国師の法孫にあたる玉岫禅師を開山に迎え創建した寺院である。小倉山の麓に位置し、北は二尊院、南は亀山にいたる広大な寺領を有していた。しかし弘源寺に関する記述は実に少ない。地誌においては「山城名勝志」(新修 京都叢書 第7巻 山城名勝志 乾(光彩社 1968年刊))の巻九に他の天龍寺の塔頭とともに、その歴史が簡潔に記述されている。上記のように玉岫英種を開山として細川持之が創建したこと以外には、南方紀伝より嘉吉2年(1442)8月4日に細川持之が43歳で亡くなり、弘源寺と号されたこと、そして長享年後兵乱記より、天文11年(1542)8月4日に弘源寺殿の百年忌が弘源に於いて行われたということが記されている程度である。この後、弘源寺は数度の火災等により創建当初の寺域を失ったようだ。現在でも落柿舎の北側に小倉山墓地があり、向井去来の墓が残されている。この墓地は弘源寺の墓地とされているので、江戸時代中期までは落柿舎を含む場所に弘源寺が残っていたと考えるべきだろう。

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常寂光寺 仁王門
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常寂光寺 本堂へ続く石段
京都・花灯路のための灯籠が見える

 現在の弘源寺は天龍寺の総門の西にあるが、小林善仁氏の論文「山城国葛野郡天龍寺の境内地処分と関係資料」によると明治17年(1884)10月に維北軒と合寺している。つまり前からこの地にあったの維北軒に弘源寺が移ってきたことになる。また同氏の「近代初頭における天龍寺境内地の景観とその変化」には、天龍寺文書に所収されている嘉永3年(1850)「絵図目録」より作成した江戸時代末期の天龍寺の塔頭一覧が掲載されている。これによると、天龍寺境内には雲居庵を始めとした20塔頭、それから臨川寺とその8塔頭、鹿王院とその塔頭2。さらには宝篋院や西芳寺、地蔵院など10塔頭を加え42塔頭としている。弘源寺はこの42塔頭の中に含まれている。しかし元治元年(1864)禁門の変が勃発し、天龍寺は薩摩軍の砲火により全山焼失する。明治4年(1871)に第1次上地令の太政官布告第4号(太政官達第258号)が出、明治8年(1875)に第2次上地令として社寺境内外区画取調規則が発せられている。先の「山城国葛野郡天龍寺の境内地処分と関係資料」の12~13頁に掲載されている「天龍寺境内地の状況(明治8年夏~同9年春)」より、明治維新を挟み、境内の景観を大幅に変貌させた天龍寺の様子が窺える。上記の図はこの第2次上地令の際にまとめられた「葛野郡下嵯峨村天龍寺境内再検査結果伺」を基に作成されているが、この時点では維北軒は存在するものの弘源寺を見つけ出すことはできない。先の嘉永3年に製作された「絵図目録」には絵図が含まれていないため、元治元年以前の弘源寺がどこに存在していたかを確認できない。 なお田中氏の「山城国葛野郡天龍寺の境内地処分と関係資料」には「図4 天龍寺旧境内地の範囲」という現在の地図上に旧境内地の範囲を示した地図が掲載されている。天龍寺旧境内地は、東は臨川寺と角倉屋敷、西は大河内山荘御髪神社を含み、南は大堰川、そして北は野宮神社へと続く竹林の道から嵯峨天龍寺北造路町の南側半分程度が含まれる範囲であった。そして落柿舎は範囲外となっている。

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常寂光寺 本堂と庫裏
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常寂光寺 本堂庭園
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常寂光寺 妙見堂

 「日本歴史地名大系第27巻 京都市の地名」(平凡社 初版第4刷1993年刊)には、寛永年間(1624~44)天龍寺が弘源寺の地を本圀寺の日禎上人に退隠所として譲渡したという記述がある。弘源寺創建から凡そ200年経て、創建時の境内地の西側地域を日禎上人に譲ったと考えることもできる。ただし日禎上人は元和3年(1617)に入寂しているので、寛永年間ではなく常寂光寺の創建の慶長元年(1596)頃であろう。
 また、常寂光寺の多宝塔の傍らに建てられた林屋辰三郎の碑には、文禄4年(1595)10月朔日に嵯峨土倉角倉家の当主吉田栄可が、京都本圀寺日禎上人の求めに応じその領地を寄進して常寂光寺の創建に助縁したとある。碑文後半に記されているように、この碑は昭和40年(1965)角倉一族の後裔によって結成された角倉同族会が、昭和54年(1979)に同族の先亡諸霊を供養するために建立している。歌人としても有名であった日禎上人のために歌枕で有名な小倉山の地を用意したのは天龍寺ではなく、吉田栄可や角倉了以といった裕福な町人であり、この時代の文化を担った人々でもある。林屋辰三郎の碑は日禎上人と角倉家の関係を明らかにしているので、長文ではあるが下記に記しておく。

 古来歌枕の名所として知られた小倉山のこの地は、今を去る三百八十四年前、文禄四年十月朔日に、嵯峨土倉角倉家の当主、吉田栄可が、京都本圀寺日禎上人の需めに応じその領地を寄進して、常寂光寺の創建に助縁したゆかりの所である。
 角倉家は近江国愛知郡吉田の出身で、本姓は吉田、家祖徳春が医術をもって足利義満に仕え、退隠後嵯峨に住んで隣里その徳に懷き、二代宗臨、三代宗忠は、この地に土倉を営んで富裕をいたし、一族大いに繁栄した。宗忠の長子、光治の早世によって永禄八年七月栄可は嫡孫として宗家と、祖父の名、与治を継承した。あたかも戦国から天下一統に至る怱々の時に当って、当主栄可が家運の発展に果した役割は極めて大きく、その分家一族より、朱印船によって安南国に交易し、また諸国の河川疏鑿などに力を尽した了以、素庵の父子を出し、嵯峨角倉隧道の建設や和算書『塵劫記』の出版によって知られた光長、光由兄弟を生んだのも、この栄可の経済力に負うところが多かったと考えられる。また栄可が宗派を超えて当寺開山、日禎上人に帰依したことは、当時としては、はなはだ異例のことであり、その自由闊達な風格がしのばれるのである。
 昭和四十年七月、角倉一族の後裔たちが相集い、祖先たちの偉業を追慕し顕彰するため、角倉同族会を組織したが、このたびその同族会の精神的表徴としてゆかり深い当寺境内の一隅に供養塔を造立して、ひとり栄可にとどまらず、ひろく同族の先亡諸霊を供養することとされた。たまたま角倉家の事歴を考証研究するそのゆかりをもって、ここに造塔の由来を記録するしだいである。
  昭和五十四年十月朔日 文学博士  林屋辰三郎

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常寂光寺 多宝塔
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常寂光寺 多宝塔
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常寂光寺 林屋辰三郎撰文の碑

 大悲閣千光寺 その2でも触れたように、角倉家の本姓は吉田氏で近江国犬上郡吉田村出身とされている。初代となる吉田徳春が室町時代中期に上洛し、足利義満、義持に仕え、晩年に医術を習得している。その子の宗臨の代には足利義政に医術で仕えるようになる。そして三代目の宗忠がその後の角倉家の財を築き、土倉を営むようになる。洛中帯座頭を務めるなど洛中における経済の中核となる。宗忠は土倉業を長男の光治に継ぎ、次男の宗桂には医者を継がせている。宗桂は臨済宗の禅僧・策彦周良に従い遣明船で2度中国を訪れている。光治が早世したため吉田家の本家は栄可が継いでいる。すなわち三代目宗忠の長男の光治を継いだのが栄可で次男の宗桂を継いだのが了以と、二人は従兄弟関係にある。さらに了以は栄可の娘を妻とし、息子の素庵を得ている。 常寂光寺の公式HPに記されている寺院の歴史を見ても、文禄5年(1596)角倉家より小倉山の土地の寄進を受けるとある。林屋辰三郎の「角倉素庵 朝日評伝選19」(朝日新聞社 1978年刊)にも、角倉家が土倉業として近郊の田畑や斜陽期の寺院の所領を集めていたことが「田中光治氏所蔵文庫」からも見られると指摘している。その上で日禎上人の所望に栄可が快く同心したと記している。かつての天龍寺の所領を管理していた角倉家が上人に寄付したのであろう。

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常寂光寺 開山堂

 日禎上人は永禄4年(1561)に藤原北家日野氏流広橋国光の子として生まれている。戦国時代から桃山時代にかけての日蓮宗の高僧。究竟院と号する。兄弟に広橋兼勝、日野輝資等がいる。幼い頃より本圀寺15世日栖の門に入り、18歳にして同寺の16世となる。宗学と共に歌道への造詣も深く、加藤清正、三好吉房、小出秀政、小早川秀秋、秀吉の実姉にあたる瑞竜院日秀、そして京都町衆に多くの帰依者があった。文禄4年(1595)豊臣秀吉は、建立した方広寺大仏殿で千僧供養を計画し各宗派へ出仕を求めた。日蓮宗では宗法を守るべきか、宗法を破ってでも出仕するかで意見が二分した。日禎は日奥等と共に、権力者の要求でも宗法を破るべきではないと不受不施義の教義を守り出仕しなかった。日禎は翌文禄5年(1596)4月に本圀寺を発ち開祖の日蓮の佐渡の霊跡巡拝を行った。同年中に京に戻り小倉山に隠棲する。この地を選んだのは古くから歌枕として名高く、俊成、定家、西行などのゆかりの地であったからと考えられている。上記のように角倉了以の従兄弟にあたる吉田栄可が現在の常寂光寺の地を寄進している。 慶長11年(1606)角倉了以が大堰川開削を行った際、慶長9年(1604)に作州和計河で見た舟を参考にしたことを林羅山撰文の記念碑「河道主事嵯峨吉田了以翁碑」が記している。日禎上人は了以に大檀那の来住法悦を了以に紹介している。「岡山県総合文化センターニュースNo.414」(岡山県総合文化センター 1999年刊)に掲載されている「おかやま人物往来48」の「来住法悦と日禛」によると、来住法悦は和気郡浦伊部(現在の岡山県備前市)の豪商で、浦伊部が中世に栄えた港町であったことから海運業によって財をなしたと考えられている。日禎上人は慶長7年(1602)再興された妙圀寺に赴き、千部経読誦会を修して50日滞在している。妙圀寺の末寺であった牛窓法蔵寺の檀徒に舟夫が多いことを知り、了以の大堰川開発にあたって、牛窓から18名を呼び寄せ付近の人々に操船技術を教えさせたという。川が開ける8月に上京し常寂光寺を宿所とし、翌年の4月に備前に帰って行った。しかし寛文年間(1661~73)に法蔵寺が廃寺になったため、その檀徒が京都へ移住し角倉家の計らいで天龍寺小字大雄寺の荒地を開いて住み着いた。ここを小屋町と云い、後に角倉町と改称したとされている。角倉町とは桓武天皇勅営角倉址・了以翁邸址・平安初期鋳銭司旧址の三宅安兵衛遺志が建つ公立学校共済組合嵐山保養所 花のいえがある右京区嵯峨天龍寺角倉町のことである。
 日禎上人は元和3年(1617)8月23日に入寂している。

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常寂光寺 開山堂前の墓

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