京都御所 その7
京都御所(きょうとごしょ)その7 2010年1月17日訪問
京都御所 その6では、御所の九門について記した。かつては御所とともに、その周囲に並ぶ公家町を守るために設けられた門であったが、明治に入り公家町が取り壊された後は京都御苑の門となった。そのためか、かつては御所の近くに設けられた蛤御門や清和院御門も、現在では全て四周を取り囲む今出川通、烏丸通、丸太町通そして寺町通に面する位置に移されている。この項では御所の築地塀に設けられた六門について書いてみる。これは、この後に記す甲子戦争すなわち禁門の変の際に、九門とともに位置関係が分からないと理解できなくなるためである。
平安京の内裏は二重の塀によって囲われていた。内側の塀を内裏内郭、外側を外郭と呼んだ。内郭にも外郭にも門が設けられていたが、外郭の南側中央の正門を建礼門、西側中央の門を宜秋門、北側中央の門を朔平門、そして東側中央の門を建春門と名づけられた。これ以外にも南側西隅に修明門、同じく南側東隅に春華門、北側西方に式乾門があり、内裏外郭門あるいは宮門と呼ばれていた。日文研が所蔵している「内裡図附中和院」にこれらの名称を見ることができる。この内それぞれの面の中央門、北の朔平門、西の宜秋門、南の建礼門、東の建春門の名称が今日まで残っている。この4門以外に現在の名称では皇后門と清所門が加えられ六門となっている。
ただし六門は古く里内裏が誕生した時期からあった訳ではなく、その時期毎に門の数も位置もそして名称も異なっている点は注意しなければならない。
今出川御門を入った突き当たりに設けられた四脚門で形式は宜秋門と似ている。この門は寛政度造営によって、かつての内裏外郭にあった朔平門を復活させている。そのため寛政度以前には存在していなかった。宝永度造営以来、皇后・中宮・女御の御殿が内裏の北側に寄せられて造られたため、その正門の役割を担っている。
内裏西側に設けられた3つの門の中で一番北側に位置する薬医門。上記のように宝永度造営以来、皇后・中宮・女御の御殿が内裏の北側に寄せられて造られたため、その造営以降に設けられた門。
内裏西側に設けられた3つの門の中で中央に位置する薬医門。清所とは御所の御厨子所で、宮中で天皇の食事や節会の酒肴を司った所。内膳司に属し後涼殿の西廂にあった。勝手口に相当する門であるため御台所門とも謂われた。所司代、付武家、御内の侍等はこの門より参入したが、所司代や上使も衣冠束帯で参内する際は、次の宜秋門より参入することとなっている。なおかつての勝手口は京都御所拝観者の入口となり、警察の詰め所が設けられている。
■4 宜秋門 内裏西側に設けられた3つの門の中で一番南に位置する四脚門。宮家、摂家その他の公家が出入りしたため公家門とも謂われた。上記のように衣冠束帯に身を纏った所司代等はこの門より参内している。かつては御唐門とも謂われたが、現在の宜秋門は唐門様式とは異なっている。
宜秋門と清所門は造営の度に入れ替わりが生じている。藤岡通夫の「京都御所 新訂」(中央公論美術出版 1987年刊)では、天正度造営の際は西側築地南寄りに御唐門があったことが洛中洛外屏風より分かるとしている。次いで慶長度造営では内裏南寄りに四足御門が作られ、御唐門は西側築地中央に設けられている。ところが寛永度造営では、この2つの門が入れ替わり、南に御唐門、中央に四足御門が設けられている。承応度は指図では明らかにならないが、御唐門は北にあったように考えられている。寛文、延宝の二度の造営では南寄りの門が向唐破風の門であったにも関わらず四足門と記され、北の四足門を御唐門という名が冠せられている。建築様式と門の名称が入れ替わり、かつての門の名称が優先されたようだ。さらに宝永度造営では、四脚門の位置は従来どおりだったにも関わらず、向唐破風の門は内裏南側築地の西寄りに設けられている。寛政度造営の内裏では西側築地の南寄りには門が無くなり、その北に宜秋門のみがあるようになっている。以上のように現在の宜秋門の位置にかつては向唐破風の門があったことより御唐門という名称が残ったのであろう。
なお、「安政度御造営誌」では宜秋門と明記しているものの、指図では唐門あるいは唐御門等と記されている。このことより宜秋門という名称は安政度造営が終了してから使用された名称とも考えられる。
内裏南側に設けられた四脚門で内裏の正門とされている。その位置は中央よりやや西寄りに設けられている。南御門とも呼ばれ、現在は天皇が臨幸される時、あるいは国賓が訪問される時に開かれるが、近世においては即位の大礼等の儀式の際のみ開かれている。
建礼門は紫宸殿を包む内郭の南側に設けられた承明門と築地外を結ぶために設けられているが、中世の里内裏には南門は設けられていなかった。南門が現われたのは慶長度造営であり、以降内裏の正門となった。復古様式が採用された寛政度造営において、従来の南門の位置に承明門が造られ、さらに南に南御門が造営されている。寛政度に内裏が南に拡張したのは、これが理由だとされている。また、寛政度では従来どおりの構造であったので建礼門代であるものの、南門と呼ぶべきことが記されている。安政度造営の指図でも南御門と記しているので、上記の宜秋門と同様に、建礼門の名称が一般化したのは、安政度造営が終了してからと考えられている。
内裏東側に設けられた唯一の門で、最も南寄りに設けられている。向唐破風様式になっているため、建礼門より華やかな印象を受ける。現在は皇后が入られる門とされているが、これは近年の風習である。近世においては日御門と呼ばれ、内侍所への通路として使用された。
上記のように南門が慶長度造営の際に造られたのに対して、日御門は室町時代からもあったことは確かである。寛永度造営の際に東側築地の中央付近に移ったが、その他はいずれも南寄りに設けられている。
宜秋門や建礼門の名称が安政度造営の指図には用いられていなかったのに対して、建春門の名称は指図に記されているため、他の二門より早く古の名称が復活したようだ。寛政度造営の時点より内侍所への入口としての日御門の役割は、建春門の北側に設けられた穴門を日御門代としたことから、日御門の名称が使われなくなり建春門となったと藤岡通夫は「京都御所 新訂」で推測している。
安政度造営の指図を見ると六門以外に築地の内外を結ぶ穴門が各所に設けられている。北面に1箇所、西面に4箇所、南面に1箇所、東面に6箇所の計12箇所が確認できる。東北の大きな切り欠きは慶応元年(1865)11月の内裏築地の拡張で変更されている。その際に、東面の6箇所の穴門の内の1箇所が北面に移っているが、穴門の総数は変わっていないようだ。
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