京都御苑 橋本邸跡
京都御苑 橋本邸跡(きょうとぎょえん はしもとていあと) 2010年1月17日訪問
伏見宮、桂宮、有栖川宮、閑院の四世襲親王家と賀陽宮邸跡に次いで、公家邸跡を巡る。最初の橋本邸跡は京都迎賓館の西側、学習院の北側、御所の東側築地に面する位置にある。
橋本家は藤原北家閑院流、西園寺流の公家で西園寺公相の子西園寺実俊を祖とする。その創設は鎌倉時代末期に遡る。実俊は冷泉、橋本、入江などを称していたが、孫の橋本実澄の代から橋本の家名が定まる。6代目の橋本公国まで父子相続が続いたが、公国に跡継ぎがなかったため同じ西園寺家一門の清水谷家から橋本公夏が養子に入った。公夏は播磨国で出家し、彼の後は孫で養子の橋本実勝が継いだが、天正16年(1588)横死して家系は一旦中絶する。
江戸時代初期に公夏の曾孫にあたる橋本実村が実勝の養子の形式で家を継ぐ。江戸時代後期には橋本実久が議奏を務め、安政の内裏造営のときは万里小路正房、修理奉行の中山忠能・大原重徳等とともに造内裏御用掛を務めている。実久の子には橋本家を継いだ実麗と、仁孝天皇典侍で和宮の生母である経子がいる。また実久には理子と勝子の2人の妹がいる。理子は水戸藩主徳川斉昭に嫁いだ登美宮吉子付きの老女とも斉昭付きの老女とも言われている。勝子は大奥に入り、上臈御年寄となり姉小路の名を拝領している。
仁孝天皇の皇女和宮親子内親王は弘化3年(1846)閏5月10日に第8皇女として橋本実久邸に生まれている。母は橋本経子。仁孝天皇は内親王の生まれる前の弘化3年(1846)1月26日に崩御されている。そのため同年6月14日に兄の孝明天皇が即位している。有栖川宮邸跡でも記したように、嘉永4年(1851)7月12日、和宮内親王は有栖川宮熾仁親王と婚約の内約を結んでいる。「孝明天皇紀 第ニ」(平安神宮 1967年刊)の同日の条にも「十二日丙申勅使を有栖川宮に遣し皇妹和宮を以て太宰師熾仁親王に配する内旨を賜ふ」とある。橋本実久が安政4年(1857)1月28日に没したため、同日の内に和宮は宝鏡寺に転居、同年5月24日に橋本邸に帰邸している。
和宮降嫁についての初期の活動は安政5年(1858)10月2日に井伊直弼の公用人宇津木六之丞が長野主膳に宛てた手紙の中に見える。
いよく関東の思召主上に貫通致し候得ば、条約一条も、穏に相済可レ申、其上にては、御所向御政道、猥ケ間敷事共は、十七ヶ条之御法則を以、御改正、彌以公武御合体、皇女御申下しと申場合に至り不レ申ては、後患難レ計、此儀は君上と殿下御在職に無レ之ては相整不レ申との御見込、至極御尤に奉レ存候。
君上とは主君の井伊直弼で、殿下は関白九条尚忠のことである。この手紙は戊午の密勅に対する捕縛が続いた時期に書かれたもので、井伊家としては対処療法ではない第二の矢を考えていたこと、未だ皇女を和宮に特定していなかったことも分かる。そして安政7年(1860)3月3日、この計画の江戸側の首謀者である井伊直弼が桜田門外で暗殺される。計画は消滅することなく、実行者を失ったまま残り、次の久世・安藤時代に引き継がれて行く。
徳富蘇峰は「近世日本国民史 久世安藤執政時代」(時事通信社出版局 1965年刊)において、井伊大老は幕権を拡張し、朝廷との関係は再び元和元年7月の禁中御条目17箇条すなわち禁中並公家諸法度に戻すことを目指していたとしている。上記の公武合体は必ずしも朝幕同等な関係でのものではなく、政治決定は全て幕府が行った上での公武合体である。さらに皇女御降嫁は関東に人質を取り、昔ながらの幕府に従順なる追随者と成すことが本意であったと推測している。しかし安政から万延文久と大勢は一変すると、皇女御降嫁・公武合体は井伊大老が目指したものと大きく異なったものになる。つまり手段だけが残り、その目的とするものが大きく変質して行く。
和宮の有栖川宮家への御入簾の内定は天皇よりの御内命として橋本実麗に安政6年(1959)4月27日に伝えられている。当日の実麗の日記には、「明年冬御入簾」とあり、同年11月1日には「桂御所御借用之儀」が伝えられ、御入簾のため万延元年(1960)2月23日に実麗邸より桂御所に移徒している。つまりこの時期までは入輿が順調に進んでいた訳であり、将軍徳川家茂への御降嫁が表面化するのは、この後のことである。
戊午の密勅直後の安政5年(1858)10月頃より模索してきた皇女御降嫁は、安政6年(1859)から安政7年(1860)の冬にかけて、当事者に対する非公式な打診が行われてきたことが、中山忠能や橋本実麗の日記に残されている。そして万延元年(1860)4月朔日付閣老連署の正式な要請書が京都所司代酒井若狭守から同月12日に提出されている。
5月4日、九条尚忠が和宮御降嫁の請を主上に奏上したところ、有栖川宮との約束、仁孝天皇の皇女であること、未だ15歳と幼年であること、そして関東は諸外国人が来集する地であることを理由に拒否の宸翰を下している。この後、所司代より6月4日に第二回目、そして7月4日に第二回目の上申書が提出される。この間に江戸においては姉小路、京においては岩倉具視の裏面活動が奏し、主上も幕府が五カ国条約引戻の聖旨を遵奉することを奉答したため、和宮御降嫁止む無しと判断し、万延元年(1860)8月6日、橋本実麗に和宮を諭させる旨の宸翰が九条関白に下賜されている。翌7日午前に関白は実麗を邸に招き、叡旨を諭している。実麗も午後に和宮に参上し関白から命じられたことと勅諚の趣を伝えている。和宮からは8月8日付で宮中に拝辞の書が出されている。しかし宸翰が関白に下賜、実麗と生母の観行院からも上言され、ついに8月15日に五箇条の条件を付けた拝承の書を奏している。そして幕府よりの9月5日付奉答書には下記の一文が記されていた。
蛮夷之儀に付、一廉にても実意之評定奉二申上一候様、御内沙汰之趣奉レ畏、尽二衆議一候上、自レ今七八个年乃至十个年も相立候内に者、必定拒絶之趣も申上候処、実々御思召も相立、深く御満足之御気色にも被レ為二入、然る上者、当時之役々暇令致二転役一、新役に相成共、違変無レ之様との思召之旨、委細奉レ畏候。
これは和宮の要請ではなく主上の思召しであり、攘夷期限は執政者の更迭があっても必ず行うことを誓っている。いかに当時の幕閣、すなわち久世広周・内藤信親・安藤信正・本多忠民が、和宮御降嫁による公武合体による政情安定のみを目指し、到底実現不可能な約束まで行ってしまったかが分かる。安藤信正は坂下門外の変で生き延びたものの、4人とも文久2年(1862)には全て失脚し、このツケは松平春嶽や一橋慶喜に先送りされる。井伊直弼を大老とし安政の大獄を為さしめた事、そして大老の暗殺により政治の方向性を変更した事、また政治的な空白時期を生み出した事などが、徳川幕府にとっていかに大きな転機になったかについては議論の余地も無い。福地源一郎は「幕府衰亡論」(「続日本史籍協会叢書 幕府衰亡論」(東京大学出版会 1892年発行 1978年覆刻))でも「幕府衰亡の際に天下の一大問題たりし皇妹降嫁と云へる」と断言している。福地は「徳川氏の幕府を衰亡せしめたるは外交その端緒たること」、外交のために日本の局面に大いなる変動が無ければ「芋殻の如くなりしとも未だ容易には衰亡せざりし」としている。ここで言う外交とは、不平等な関税や金銀交換比率の内外差による経済的な混乱を含めたものである。
幕府からの奉答書が届く前の万延元年(1860)8月22日、関白九条尚忠は有栖川親王家を訪れ、これまでの事情を陳情している。つまり事後承諾を得るための訪問となっている。翌23日に熾仁親王から御入興延期の願書が提出され、26日に勅を奉じて御入興延期允許の御沙汰が伝宣されている。この日を以って御内約の解除は終わる。
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