文書と写真・地図による「記憶」の再現

大久保利通旧邸 その2

大久保利通旧邸(おおくぼとしみちきゅうてい)その2 2010年1月17日訪問

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大久保利通旧邸 京都市教育会が昭和2年(1927)に建立した石碑

 大久保利通旧邸では、大久保利通の幕末維新時の行動を時系列に見て来た。最初の上京が文久2年(1862)1月13日であり、明治元年(1868)9月20日に行われた東京行幸までの6年余の期間が大久保にとっての京都における政治活動の全てであった。この期間の前半は錦小路や二本松の京都薩摩藩で暮らしていたが、後半は藩邸外に邸宅を持ち他藩の藩士特に長州藩士との情報交換に用いたことが分かる。薩長同盟が締結された慶応2年(1866)正月の後となる同年春には、御所の石薬師御門の東側に位置する邸宅を大久保は手に入れていたと考えられている。「大久保利通文書」(「日本史籍協会叢書 大久保利通文書 1」(東京大学出版会 1927年発行 1983年覆刻)に所収されている西郷に宛てた大久保の書簡(93 西郷吉之助への書翰 慶応二年三月十九日)には、下記のように品川弥二郎についての事柄が記されている。

品川義今暫ク滞在いたし大抵模様相分候迄見合度与之事故其通いたし候様相答小生御長屋江召入置申候彼書面御一覧之筈趣意丈ヲ
朝廷江訴出度与之事ニ而實に可憐情實若戦之期ニ臨ミ候ハヽ如何様共計候様可有之与愚考仕併是ハ只今可論事ニも無之何れ其節ニ臨而之事ト相考申候間左様御聞置可被下候以上
三月十九日              一蔵
吉之助様

 勝田孫弥著「甲東逸話」(富山房 1928年刊)には、石薬師に大久保邸が設けられたこと以外にも、小松の御花畑邸に造った茶室を大久保が貰い受け、敷地内の奥庭、恐らく南側に移設した話も記されている。この御花畑邸の茶室とは、諸説あるようだが慶応2年(1866)正月21日に締結された薩長同盟の密談が行われた場所とされている。勝田は小松が御花畑邸に茶室を建てたのを慶応2年頃と漠然と記しているが、これでは薩長同盟成立後の建物である可能性も出てくる。また大久保が小松より貰い受けた時期についての記述もない。
 大久保利通旧邸について調べる上で、幸いなことに大久保の子にあたる大久保利武の「有待庵を繞る維新史談」(以後「維新史談」と記す)という一文が遺されている。これは昭和17年(1942)11月6日に、大久保利武が貫道会の会員に対して茶室・有待庵の由来を説明した講演を基にしたものである。貫道会とは、京都市の有志十数名が裏千家の家元・千宗室を中心に茶道を楽しむ社交団体であり、この講演の冒頭で利武は下記のように述べている。

この旧宅は私の父利通が、慶応二年の春から明治元年の六月まで、丁度二年半ばかり住まって居ったのであります。その頃時勢の変遷頗る急激に、王政維新に向って一大進展をなし、色々顕著なる歴史の出来事が起って来るのでありますが、またその間に隠れた事績も少なくないのであります。この旧宅及び茶室が、種々それに付き縁故由緒も存するのでありますので、そういうことから特に貫道会から御申し込みになり、且つ私にそれ等の事績に関したる維新史のお話をして呉れという牧野幹事から御依頼に預かったのであります。いろいろ御維新に関してのお話も多いのでありますけれども、今日はあの茶室に関したことと、それから錦の御旗の事について、東京から多少それ等に関した文書史料も携帯して居りますれば、重に薩長両藩に関したる維新の事績を申し上げたいと思うのであります。

 大久保利通の長男である大久保利和は安政6年(1859)に生まれている。父と次弟の牧野伸顕と共に岩倉視察団に加わり渡米、帰国後は開成学校に入学している。明治14年(1881)には日本鉄道株式会社の設立に参画している。さらに明治17年(1884)華族令施行で侯爵に叙され、大蔵省主計官や貴族院議員などを務めている。利和は沖縄に鉄道を敷設することに注力したが、その夢は現在に至るまで果たされることはなかった。後継ぎがなかったため昭和3年(1926)には三弟の利武を養子とし家督を譲っている。兄の利和が短命であったからの養子ではないようだ。隠居してからの利和は長寿に恵まれ、昭和20年(1943)東京で死去している。享年84.むしろ養子となった弟の利武の方が兄より早くに亡くなっている。

 「維新史談」の著者である大久保利武は、慶応元年(1865)に大久保利通の三男として生まれている。兄と同様に内務官僚となり貴族院議員をも務めている。つまり利武が貫道会に対して講演を行い「維新史談」を纏めた昭和17年(1942)には、兄の利和より大久保家を継いでいたことになる。なお文中に現れる牧野幹事とは二人の兄弟にあたる牧野伸顕ではなく、社会事業家であり同志社総長を務めた牧野虎次のことである。
 牧野虎次は当日の利武の話を後世に残しておきたいと考え、講演の速記を作成させていた。そしてこの速記に対して、大久保利武が「完膚なきまで筆を加え、十に七、八は新しい文章になり、全く面目を改めて居ります。」と云うような大幅な加筆が行われた。昭和18年(1943)7月13日、印刷校正を果たすことなく大久保利武が死去したため、長男であり歴史学者である利謙が作業を継いでいる。利謙は誤植訂正と句点を補うに留め、なるべく父の加筆を尊重したと述べている。その上で同志社の牧野虎次の勧めに応じ、跋文を記すとともに有待庵の若干の資料も追加している。
 「維新史談」は財団法人同志社より「同志社講演集第八輯」として昭和19年5月5日に刊行されている。しかし戦況が悪化した世に、非売品の小冊子が広く流布されることはなかったようだ。現在、社団法人尚友倶楽部より「尚友ブックレット9 重野安繹『西郷南洲逸話』、大久保利武『有待庵を繞る維新史談』」(芙蓉書房出版 2011年刊)として刊行されたおかげで、わざわざ国会図書館に出向くことなく(館内利用のみの国立国会図書館デジタルコレクション)読むことができた。もっとも「尚友ブックレット」自体も所蔵する図書館が少ないので、こちらを探す方が難しいのかもしれない。
 この大久保利武の「維新史談」に下記のような記述が見られる。

小松帯刀が京都を去り帰藩することになった際、小松に請うてあの茶室を貰い受け、人目に立たぬこの旧宅の奥に移し設けたもので、已に薩長連合の密談の際に用いられたものが、ところ変わりてその後もまたこの旧宅において、幾多重要なる国事の密談用に供せられたのは実に珍しく、貴重な使命を勤めた史蹟ともいうべきであると思うのであります。

 子息の利武もまた、この茶室が何時の時期に大久保邸に移されたかを明らかにしていないが、小松帯刀が京都から帰国際に貰い受けたとしている。文久3年(1863)以降の小松帯刀の居場所を、「鹿児島県史料集21 小松帯刀伝」(鹿児島県立図書館 1980年刊)を使い明らかにしてみる。
 文久3年正月8日に出京し、同月23日に大久保利通と共に蒸気船永平丸で大阪を出帆するも明石沖で暗礁に乗り上げ引き返している。公儀の船を借りて帰国している。3月4日には島津久光に従い同月14日に着京するが、18日には退京して4月11日に鹿児島に到着している。さらに5月に入ると貞姫の近衛家輿入れ御用掛を命じられるが、薩英戦争のため上京が11月に延期される。そして7月2日の薩英戦争では指揮を執った後、9月12日に久光の御召により先発隊として上京する。10月3日に、久光は朝廷および近衛家より強く望まれていた上京を果たしている。これが八月十八日の政変以降で初めての上京となった。文久3年の後半から元治元年(1864)の前半にかけて参与会議が開催されるが、何も決せないまま参与体制が決裂する。朝廷に失望した久光は4月17日に大久保一蔵と共に帰国の途に着く。小松は島津久治と在京が命じられる。そして7月19日の甲子戦争を西郷と共に迎える。薩摩藩兵の活躍により幕府、会津藩等の守衛軍が辛くも長州軍を退ける。
 8月13日、島津久治の帰国に従い小松も鹿児島に戻る。藩公父子より禁門の変の感状を受け、五百石の加増となる。帰京命令により再び9月20日に出航し、28日に着京している。次の帰国は慶応元年(1865)4月22日であった。途中、長崎出張や薩長の不和を解くため長州藩士の井上聞多を薩摩藩士に引き合わせるなどを行っている。10月25日、西郷と共に海軍方一隊を率いて上京する。慶応2年(1866)正月の薩長同盟締結後、2月29日に西郷、吉井及び坂本龍馬夫妻を伴い、帰国の途に着いている。この後の3月14日より4月8日まで、小松は栄ノ尾温泉で療養している。そして同年10月8日に上京の命が下り、西郷と共に同月26日に着京している。孝明天皇の崩御から大政奉還までの激動の京都政局にあって、大久保、西郷と共に薩摩藩の方針を倒幕に導くこととなる。10月17日、大久保、西郷と共に退京、山口に立ち寄り毛利父子に謁し、同月26日に帰国する。11月7日、藩主に随行し上京を命じられるが脚疾により歩行ができなくなり、西郷等に託す。慶応4年(1868)正月18日に出帆し25日に着京している。そして28日に外国事務掛を命じられている。
 慶応2年正月の薩長同盟締結後、小松は2度帰国している。一度目の慶応2年2月の帰国は、先に帰国した大久保が京に戻ってきたのと交代する形で行われている。既に記したように3月から4月までの間、湯治を行っていることからも健康状態に問題を抱えていたことが分かる。もし大久保が小松から茶室を譲り受けたならば、この帰国の際であったかもしれない。つまり二度目の帰国は慶応3年(1867)10月17日で、西郷や大久保を伴ってのものであった。この幕末の最終段階で、わざわざ茶室を移設するような時間的な余裕は既になかったと思われる。

 なお、瀬野冨吉著の「幻の宰相 小松帯刀伝」(小松帯刀公顕彰会 1986年刊 2008年宮帯出版社覆刻)では、元々石薬師邸は小松帯刀が使用しており、薩長同盟や薩土盟約などの勤王の志士や公卿との会談のほとんどがここで行われ、明治2年(1869)の小松の退官後に大久保に譲られたとしている。さらに瀬野は石薬師邸が近衛家の御花畑邸であり、邸内にある有待庵は薩長同盟の際に用いられた茶室であると記述しているが、どこかで誤解が生じたのであろう。大久保利武の「維新史談」を確かめれば分かるように、有待庵があるから御花畑邸であったわけではなく、茶室のみを御花畑邸から移設したのである。

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